村田孝生とは? わかりやすく解説

村田孝生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 13:45 UTC 版)

村田 孝生
生誕 1893年10月6日
日本 東京府
死没 (1953-04-03) 1953年4月3日(59歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1915 -
最終階級  陸軍中将
テンプレートを表示

村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

東京府生まれ。東京府立第一中学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業。

1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第1独立守備隊参謀に就任。1939年(昭和14年)1月、関東軍隷下の歩兵第43連隊長となり、1940年(昭和15年)12月、第11軍隷下第33師団参謀長に転じ、日中戦争支那事変)の錦江作戦中原会戦に出動。

太平洋戦争大東亜戦争)に於いては第15軍隷下としてビルマ侵攻作戦の「解放の尖兵」として活躍した。1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に進級。以後、関東軍隷下の第14歩兵団長、支那派遣軍隷下の独立歩兵第12旅団長を歴任。1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進み、同年6月、第2総軍隷下の第231師団長に発令され、山口市付近で本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

脚注

  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。

参考文献

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村田孝生」の関連用語

村田孝生のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村田孝生のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの村田孝生 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS