李庠誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 10:00 UTC 版)
趙廞は朝廷が討伐軍を興す事を恐れており、秦州六郡の流民から1万人余りの勇士を集めると、李庠に彼らを統率させて北道(関中から蜀に南下する道)を遮断させた。 301年1月、趙廞は李庠が勇猛で良く人心を得ており、また彼の陣営がよく整っていたことから、次第にその動向を警戒するようになった。また彼の部下は勝手気ままで趙廞の命に従わない事があり、これを疎ましく思うようになったが、口には出さなかった。長史の杜淑と張粲は趙廞へ「将軍(趙廞)は兵を起こしてまだ間もないというのに、李庠に強兵を与えて外に配備させております。しかも、彼は我らと同族ではなく、その内には必ず異心があります。あの軍勢が我らに牙を向ける前に、速やかにこれを対処するべきです」と述べた。趙廞は顔を険しくして「卿らの言葉こそ我の意である。『予を起こすものは商なり』とは正にこのことであるな。これは天が卿らを使って我が事業を成就させようということだろう」と述べた。 その後、李庠が趙廞の陣営にやって来て面会を請うと、趙廞は大いに喜んで引見した。李庠は趙廞の意を探ろうとして、再拝して進み出て「今や中国は大いに乱れており、国家の法は無いに等しく、晋室はもはや復興しないでしょう。明公(趙廞)におきましては、道は天下に従っており、徳は天下を覆っております。殷の湯王・周の武王の事業が今ここにあるのです。天の時に応じ、人の心に従い、民を塗炭の苦しみから救うならば、民心は帰結し、蜀だけでなく天下を平定する事も可能となるでしょう」と述べた。趙廞は怒り「これが人臣の言うべきことであろうか」と言い、杜淑らに命じてこの罪を議論させた。杜淑らは「大逆無道である」と断じ、李庠を始め、その子や甥の李弘など宗族10人余りを処刑した。
※この「李庠誅殺」の解説は、「趙廞」の解説の一部です。
「李庠誅殺」を含む「趙廞」の記事については、「趙廞」の概要を参照ください。
- 李庠誅殺のページへのリンク