本庄事件 (関東大震災)
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本庄事件(ほんじょうじけん)とは、1923年(大正12年)9月4日、関東大震災後の混乱の中、埼玉県児玉郡本庄町(現:本庄市)の本庄警察署で発生した暴動と朝鮮人殺害事件のこと。流言を信じた群衆や自警団が警察の保護下にある朝鮮人数十人を殺害した[1]。
事件の経緯
流言の到達
震災後、本庄駅には東京方面からの避難者が押し寄せ、町民は町をあげて炊き出しなどの救援活動を行っていた。9月2日以降、避難者は激増し「朝鮮人が放火・井戸に放毒」の流言が伝わる。朝鮮人が同地方にも侵入するとの流言も盛んに宣伝された。
「混雑名状スヘカラサル折柄各列車毎二充満セル多数避難者ハ異口同音二不逞鮮人カ東京市ノ大震災ニ乗シ爆弾ヲ投下シ井戸ヘ毒物ヲ投入シ又ハ放火スル等ノ暴虐ノ所為ヲ敢テシ同市ヲ全滅セシメ多数市民ヲ焼死セシメタルヲ以テ鮮人ヲ発見次第復讐致シ呉レトノ悲痛ナル絶叫ヲ為シタル」(浦和地方裁判所判決1923年11月26日) [2]
9月2日、内務省警保局[注釈 1]は各地方長官宛に流言に基づく不逞鮮人暴動の警告を発した。東京の内務省で打合わせを終えた埼玉県の地方課長は午後5時頃埼玉県庁へ戻り「不逞鮮人」警告の通牒が県から各郡役場に伝達された。同地方では児玉郡役場から各町村役場に警告が伝達され、各地で自警団が組織された[注釈 2]。
朝鮮人移送の失敗
9月3日、県南部で検束されていた朝鮮人の県外への移送が計画された。警察・消防団により村送りの方法で徒歩で中山道を北上させ、途中から順次車両で移送させた。県境に近い本庄警察署は移送の中継点となった。署には駅などで検束された朝鮮人も集められ、3日夕刻には20名前後の朝鮮人が収容されていた[1]。 9月4日、蕨からの先行集団が籠原から自動車で本庄警察へ向かい、川口からの百数十人の集団は久下村・佐谷田村・熊谷町で順次自動車により深谷・本庄を目指した。しかし、4日夕方に熊谷で騒乱が発生、残されていた朝鮮人数十人が殺害された(熊谷事件)。
本庄警察署には、4日正午、籠原から自動車で移送された朝鮮人の集団が到着し、その後も朝鮮人を輸送する自動車5台以上が到着した。 4日午後1時過ぎ、本庄署から出発した2台のトラックが十数人の朝鮮人を分乗させ、県境の神流川に到着したが、群馬県側の新町の自警団により朝鮮人の引き継ぎや通過が拒否された。同行の警官は群馬県警藤岡警察署に電話連絡して引き継ぎを依頼したがこれも拒否されたため、朝鮮人を河原に残してトラックは本庄署へ戻った。降車した朝鮮人らは自警団に暴行を受けたが、賀美村消防団長により賀美村役場に収容された[3][注釈 3]。
神保原事件の発生
本庄署ではさらに数回に分けて車両による群馬県方面への移送を試みた。夜に入って朝鮮人を分乗したトラック3台が再び賀美村に差しかかったが、自警団が投石するなどして通行を妨害したため、先に賀美村役場に収容されていた朝鮮人一行も同乗させて本庄署へ向けて引き返した。トラックが神保原村を通過した際に群衆がトラックを取り囲み、1台は突破したが、2台を粗朶束などを投げつけて停車させ襲撃した。本庄署署長がトラック上で説得を試みたが群衆に襲われ駐在所に逃れた。警官2名も重傷を負った。乗車していた朝鮮人数十名は4日夜から5日未明にかけて殺害された[3](神保原事件)。
本庄事件の発生
4日午後8時頃(判決文より)、朝鮮人数十人を乗せた二台の車両が深谷方面から本庄警察署構内に到着した。同時に、神保原事件を逃れたトラックが本庄署に戻ったところ、署の周辺に蝟集していた群衆がこれを見つけ、警鐘を乱打するなど興奮状態になった。群衆は約3000人(判決文)に達して暴徒化し、朝鮮人に襲いかかった。群衆は署内にも乱入し、4日夜から5日未明にかけて署内で匿われていた朝鮮人を殺害するに至った[2][3]。
翌5日にかけて死体は署内から荷馬車などで運び出され、一部は町内の火葬場に運ばれた。しかし、そこでは処理しきれなかったため、付近の野原に穴を掘って石油をかけて焼却され、遺骨は長峰墓地に葬られた[5]。
本庄警察署焼き討ち未遂事件
村磯本庄警察署署長は事件を防ぎえなかった自責から県警察部長に辞表を提出した。9月6日、村磯署長が引継ぎのため来署したところ、300人(目撃者証言)とも3000人(新聞報道)とも記録される暴徒が本庄署を取り囲み、「署長を殺せ」などと叫んで警察署を包囲した。署長は逃亡し、乱入した群衆は署内を破壊したうえ、炭俵や石油を運び込むなど焼き討ちする勢いであった[注釈 4]。 この状況を危惧した大沢村村長・在郷軍人会児玉連合会会長の岡本保次らは、本庄駅に停車中の列車に第9師団歩兵第7連隊が乗車しているのを知り、指揮官に事態を告げて出動を要請した結果、兵士が本庄署に派遣され、同署での事態は鎮静化した[6]。
本庄署では応援を要請し、周辺の警察署から応援の警察官が到着したうえ、戒厳令によって県内に展開していた陸軍部隊が続々と本庄町内に入った。9月7日深夜には第2師団歩兵第32連隊一個小隊、同日早朝に第14師団歩兵第15連隊一個小隊が到着し、町内の治安の回復を図った。その後、憲兵隊などからも応援が派遣されるなど、陸軍部隊が入れ替わり町内に派遣され、10月26日まで軍隊の駐屯が続いた。[要出典]
被害者数
本庄警察署で殺された人数については、殺害に加わった当事者らの証言によると85名とされるが、東京日日新聞では79名と報じられており、浦和地方裁判所の検事正は30余名と発表している。当時の本庄町会議員の証言では署内で87名、町内で1名の計88名としており、元本庄署巡査の証言では署内で86名、町内で15〜16名としている。また、戦後に建立された慰霊碑には86名と記載されており、関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会の調査では88名プラス不確定が14名程度となっている。[要出典]
検挙と裁判
9月22日、軍隊の応援を得て県北部での騒擾事件の犯人が一斉に検挙された。 本庄事件の検挙者は33名で、農業、露天商、鳶職、ペンキ職人、車夫、小間物商など様々な職業の人々であった[7]。周辺の熊谷町では35名、神保原村で19名、寄居町で13名、妻沼町で14名が検挙されている。
本庄事件判決 10月22日から本庄事件の裁判が浦和地方裁判所で始まり11月26日に判決が下された。 [注釈 5] 被告32名に対し懲役4年1名・懲役3年1名・懲役2年10名・懲役1年6カ月1名・懲役1年2名の実刑判決・16名が執行猶予・1名無罪。その後、東京控訴院判決では1名に懲役3年・2名に6カ月・12名が執行猶予に減刑となった [9]。
神保原事件判決 11月26日に判決が下され、被告19名に対し懲役2年1名・懲役1年6カ月3名が実刑・15名に執行猶予、東京控訴院判決では実刑4名が執行猶予に減刑された[9]。
慰霊など

1924年(大正13年)、町内長峰共同墓地に『鮮人之碑』と題された犠牲者の慰霊碑が建てられた。これは、事件直前に警察官とともに群衆の沈静化に努めた群馬新聞本庄支局長であった馬場安吉によって、事件後に埼玉県から受けた表彰金を基に協力を呼びかけて建立されたものであった。[10]
戦後、在日朝鮮人から「鮮人」の表記が差別的だと批判をされ撤去。1959年(昭和34年)、在日朝鮮人が中心となり本庄市の協力を得て『関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑』を新たに建立した。題字は日朝協会会長山本熊一、碑文は原水協理事長安井郁。毎年9月1日に慰霊法要が行われている[11]。
撤去された『鮮人之碑』は1985年に群馬県榛名町内の石材店の資材置き場で折られた状態で放置されているのが発見された。現在、本庄市児玉町太駄の本庄市文化財収蔵庫に保管されている。公開は予定されていないという[12]。
題材とした作品
小説
- 千田夏光『沈黙の風』(1987)
脚注
注釈
- ^ 後藤文夫局長
- ^ 警視庁では2日夜に朝鮮人暴動が誤報であると判明した。(正力松太郎著『悪戦苦闘』1952年、p.129-130)
- ^ 最初に出発した自動車は3台あり、1台は神保原村で自警団によって停車させられ、賀美村から引き返した2台とともに本庄警察署へ戻ったと推測される。『大正の朝鮮人虐殺事件(1980)』193頁[4]。
- ^ 署長は着任以来、遊廓への取り締まりを厳しく行うなど、町内の有力者などから目の敵にされていたという事情に加え、最初に連行された朝鮮人をすぐに釈放したことへの批難が発端となり、震災の混乱に乗じた暴徒がこのような行動に出たといわれている。
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当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:旧本庄警察署、現在の本庄市立歴史民俗資料館) 構内に殺到し来りて約三千人に達し、同夜中(注:9月4日)より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖を使用し、他の群衆と相協力して犯意継続の上朝鮮人三名を殺害
一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍を使用し、他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四、五名を殺害
一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し、他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害
一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し、他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し、尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ(以下略)
—浦和地方裁判所判決1923年11月26日と記録されている[8]。
出典
- ^ a b かくされていた歴史(1974).
- ^ a b 関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料1(2014) & p.238-241).
- ^ a b c かくされていた歴史(1974) & p.38-40.
- ^ 大正の朝鮮人虐殺事件(1980) & p.193.
- ^ かくされていた歴史(1974) & p.43,111,113,264.
- ^ かくされていた歴史(1974) & p.144,146,268-269,271,290-291.
- ^ かくされていた歴史 増補保存版(1987) & p.145.
- ^ 資料 関東大震災人権救済申立事件調査報告書 日弁連 弁護士梓沢和幸
- ^ a b 関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料1(2014) & p.解説2-7.
- ^ かくされていた歴史 増補保存版(1987) & p.427-429.
- ^ かくされていた歴史 増補保存版(1987) & p.324-325.
- ^ 毎日新聞 2023/8/20 06:00(最終更新 8/20 06:00)「朝鮮人虐殺 本庄慰霊碑の言づて=隈元浩彦(熊谷支局)」
参考文献
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- 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 (日朝協会埼玉県連合会内) 編『かくされていた歴史 : 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』1974年。 https://dl.ndl.go.jp/pid/12229336/
- 関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 (日朝協会埼玉県連合会内) 編『かくされていた歴史 : 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件 増補保存版』1987年7月。
- 姜徳相、琴秉洞 編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年10月25日。
- 北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』鳩の森書房、1980年9月。
- 北足立郡役所 編『埼玉県北足立郡大正震災誌』1925年12月23日。 https://dl.ndl.go.jp/pid/12229326
- 中島司『震災美談』朝鮮印刷株式会社、1924年。 https://dl.ndl.go.jp/pid/981895
- 大正ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ出版事業部 編『大正ニュース事典 第6巻』毎日コミュニケーションズ、1988年9月。 https://dl.ndl.go.jp/pid/12192259
- 山田昭次 編『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料1( 在日朝鮮人資料叢書 10 ) 埼玉県』緑蔭書房、2014年5月。
- 『本庄市史(通史編III)』(本庄市、平成7年)
- 『新編埼玉県史 通史編6』(埼玉県、平成元年)
- 『ビジュアルヒストリー 本庄歴史缶』(本庄市教育委員会、平成9年)
関連項目
- 関東大震災
- 関東大震災朝鮮人虐殺事件
- 関東大震災中国人虐殺事件
- 亀戸事件
- 熊谷事件
- 福田村事件
- 木本事件
- 卜部喜太郎 - 当事件の主任弁護士。
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