朝寝せり孟浩然を始祖として
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昭和35年作。 朝寝は、人間にとって究極の楽しみかもしれない。幼児やリタイヤ組は別にして、朝は決まった時間に起こされ(この受け身がデリケートな所である)、決まった時間に家を出なくてはならない。よっぽどの自由人は例外として、リタイヤするまでその束縛から抜け出ることは、生きることを辞することと同じである。眠い目をこすりながら、布団から上がらなくてはならない。秋桜子は産婦人科の医者である。普通人以上に時間には拘束されたであろう。それだけ憧憬は強かったと思われる。この句について、以下のように自註する。 「唐の詩人孟浩然は、「春眠不覚暁、処々聞啼鳥」と読んだ。まさに朝寝の大家である。すなわち私も孟浩然を開祖と仰いで、朝寝の修行をしているという句である。こういう句も、たまに詠んでみると、自分ではまことに楽しい。」(『自註 百二十句』)より。 ここでの秋桜子の「朝寝」はまさに、朝日が昇ってもまだ寝ている、布団にくるまって目を眠り込んでいる状態のように考えられる。それに対して、孟浩然の「春暁」は、春の眠りの心地よさに夜の明けるのにも気がつかず、うつらうつらしていると、あちこちに鳥の鳴き声が聞こえる。はて、昨夜雨風の音がしていたが、花はどれほど散ったかしら(松枝茂夫編『中国名詩選(中)』岩波文庫)、という状況である。何か日本語で考える「朝寝」と孟浩然の「朝寝」とは微妙にイメージが異なるような気がする。ぐっすりまだ寝ているのか、頭は起きているが目がまだ覚めやらないのか。遅く起きるか、布団に横になっているのか。どちらでも良い。どちらかに決めなくてはならない問題ではない。その微妙な差を楽しめばよい。ここの辺りを如何に楽しめるかでもある。朝寝とはそんなものであろう。まさに、春暁、春の朝ののびやかな気分(同)を如何に味わうか。味わうことができるか。人間の幅というか、余裕の見せ所でもある。俳句表現のおおらかな一面を見せている。 秋桜子自身、楽しんで朝寝をするようなことはなかったであろう。だからこそこのような楽しい俳句ができたのである。 句集『旅愁』 昭和36年刊 |
評 者 |
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備 考 |
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