最後の財界人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
永野は三木首相の独禁法改正強化や政治資金規正法改革を批判し「財界と政治が他人の関係になってしまった。効果的な献金は党本部への金ではなく、派閥や個人への金だ。三木さんの改革で、それができなくなった。財界と政界の関係を、大人の関係に復元する必要がある」と述べた。また当時、土光敏夫経団連会長が田中金脈問題への反省から、自民党への政治献金は取り次がないと決め、政界首脳との懇談会を中止させると永野は工業倶楽部での財界人のパーティの席上、「土光はいるか。土光は大バカ野郎だ」と大声でわめき"土光バカ野郎事件"と呼ばれる騒動になった。「政治には金がかかる。お金で財界と政治が結びつく」というのは永野の動物的カンに基づく常識で、土光や経団連の"きれいごと"は我慢できなかった。永野は池田内閣の"財界四天王"として知られるが、1964年に佐藤内閣が成立すると、それまでの反佐藤の姿勢をくるっと変えて佐藤首相を囲む「月曜会」などの世話人として、堀田庄三、木川田一隆、岩佐凱実とともに佐藤内閣でも"財界四天王"といわれた。これには桜田武も呆れて「財界人が政権に顔を向けるひまわりということは認める。しかし、あれほど変わり身が早いのはいかがなものか」と批判した。1972年の角福戦争では、永野は福田の勝利を確信していたが、田中内閣が成立するや慌てて、水上達三、土光敏夫らと田中首相を囲む「維新会」を作った。その後の大平首相を囲む「春芳会」、鈴木首相の「清鈴会」、中曽根首相の「清康会」と、いずれも永野が抜群のコーディネーターとなって、参加する経済人の人選などを行った。こういう永野に対して「俗物の財界ボス」とか「節操のないオポチュニスト」「見苦しいような変わり身を、てんとして恥じなくやれた。その後の経済人は皆、永野風になってしまった。悪くしたのは永野」という批判も出た。最後まで政治との関りを捨てず、国会議員がモノを頼みに行くと、万事、無条件で引き受け、断ることはなかったといわれる。「政治性があり、経済界の意思を代表して政治家と接する財界人として、永野のような人はもう出ない。"財界人"は永野で終わり、残された人は"経済人"」とも評された。
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