景泰帝の擁立とエセンの撃退とは? わかりやすく解説

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景泰帝の擁立とエセンの撃退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:54 UTC 版)

于謙」の記事における「景泰帝の擁立とエセンの撃退」の解説

英宗捕虜になったという報を聞く北京上下ともに大混乱となった。そして副都である南京への遷都論が徐有貞などから沸き起こったが、于謙はこれに反対して北京死守主張したその上で皇太后孫氏了承取り付けた上、監国として皇帝代行となっていた英宗の弟の郕王祁鈺の即位取り決めた。これが代宗景泰帝である。英宗太上皇帝とされ、その子朱見深(後の憲宗成化帝)が皇太子となった于謙王振一族郎党誅殺し、各地から援軍呼び寄せ北京防御体制整えた果たし10月英宗にしているエセン居庸関越えて北京迫ってきたが、于謙のもとで明軍攻勢出てエセン軍勢撃退エセン長城の外に引き返していった。戦い長期化すると様々な事情から不利になったエセン態度軟化させ、景泰元年1450年になって明とエセン講和を結び、無条件英宗送還した。英宗そのまま宮中軟禁されたが景泰帝そのまま帝位在り続け于謙指導軍制改革行い、再び土木の変起きないように国政引き締め行った

※この「景泰帝の擁立とエセンの撃退」の解説は、「于謙」の解説の一部です。
「景泰帝の擁立とエセンの撃退」を含む「于謙」の記事については、「于謙」の概要を参照ください。

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