政界・教育界の家族法批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
「民法典論争」の記事における「政界・教育界の家族法批判」の解説
民法典施行後の穂積八束は初等教育と軍部に影響力を持ったものの、「老耋せる神官」(戸水寛人)「富家の駙馬」(上杉慎吉)「吾輩は之に賛同せず」(花井)「曲学阿世」と罵倒されるなど、留学後に態度変更した上杉を除き学会で孤立無援であった。 1912年(明治45年)、病床にあった八束は明治天皇の大葬に強行出席、直後に病状を悪化させ死去した。彼もまた信念の人であった。 八束陣営寂として声なき時、救援に赴いたのは教育界であった。第1次山本内閣の奥田文相は、個人主義のスイスの民法で認められている程度の家長権や家産制すら日本は認めていないと指摘。さらに貴族院議員江木千之(江木衷の兄)は、明治民法は「個人主義の極端」であり、「是ほど家族制度を破って居る国は恐らくあるまい」と嘆いて、民法改正を主張。 1919年(大正8年)に開かれた臨時教育会議は、家族法の個人主義的規定を「醇風美俗」に合致するよう改正すべきと建議。これに基づく審議で家制度擁護に奮闘したのがかつての八束の盟友花井卓蔵だったが、一方で未成年者以外は自由婚姻主義を採用すべきと主張し、江木千之に呆れられたという側面があった。 花井は足尾鉱毒事件や大逆事件で弁護士として奮闘するなど、人権擁護論者としての性格も指摘されている(伊藤正己)。
※この「政界・教育界の家族法批判」の解説は、「民法典論争」の解説の一部です。
「政界・教育界の家族法批判」を含む「民法典論争」の記事については、「民法典論争」の概要を参照ください。
- 政界教育界の家族法批判のページへのリンク