政府への非協力血判署名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 08:57 UTC 版)
「サンシー事件」の記事における「政府への非協力血判署名」の解説
蔵元役人、下地頭(=下地大首里大屋子)奥平昌綱の供述によれば、1890年(明治23年)旧4月、旧藩残務処理のため、在番、蔵元幹部が旧在番役仲村朝諒の自宅へ集合した。その席上『是非とも藩政に挽回致したき趣意を以て砂川良祥両人にて主となり、相議したるに、』異議なく可決され、誓文が作成された。砂川良祥とは平良頭であり、すなわち宮古在地士族の首位であるが、高齢で耳も聞こえないため、以後、下地頭・奥平昌綱が主導して事が進められた。作成された誓文は、段階的に下位の役人にも回覧され、『各村旧与人目差等に於て至極同意に付、日を期し、各村士民へ遺漏なく血判致さす可く旨届出』末端の行政責任者(現在の村長に同じ)である「与人」の同意、発案によって、遂に各村士族・平民に漏れなく血判させる事が決定された。月日不覚、権現堂に参集し、砂川良祥を除く全員が揃って血判した(砂川のみ高齢のため、後日自宅で血判)。 東京日々新聞によれば誓文は以下の通り。 誓文一、大和人御下島、大和へ致進貢候様被申候は□、当島は往古より琉球へ進貢仕候、以来毎々、蒙御高恩申事にて、何共御請負難成段、致返答、何分相威し候共、曾て相断り可申事。一、右の通り相断り、若し御採用無之、刃物等抜出で可切果など威し立候とも、此儀島中存亡の境筋にて、聊か身命を不惜可相断事。一、大和人より押て役義被申付候共、則ち相断り可申事。一、大和人へ内通の儀共、一切仕間敷事。右の条々相背き候者は村中にて本人は身命委せ、父母妻子は流刑可致候仍て誓詞如件 この紙尾に、旧在番役併に村役人、各村人民の姓名を書署して否むものは強威をもて嚇し附けて、無理に血判を取り、大切に蔵元に蔵め置けり。 奥平は、以上の誓文は宮古で作成されたとしているが、東京日々新聞は『この誓文は旧藩庁の公事衆と云えるものより、首里大屋子らをもて廻し越せるものなりと』との噂を紹介している。
※この「政府への非協力血判署名」の解説は、「サンシー事件」の解説の一部です。
「政府への非協力血判署名」を含む「サンシー事件」の記事については、「サンシー事件」の概要を参照ください。
- 政府への非協力血判署名のページへのリンク