授業科学
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授業科学(じゅぎょうかがく、英: classroom science[1])とは、授業には教師やクラスの個性を越えた法則性があると考え、授業の法則性を見いだすことを目的に研究する科学の1分野である。その授業の法則性は実験授業の検証を経て授業書等のテキストや授業プランにまとめられる。そのテキスト等に従って授業を行えば、誰でもどんなクラスでも一定水準以上の成果が期待できる[2]。
概要
授業科学は板倉聖宣が1979年(昭和54年)に初めて提唱した科学研究の分野である[2]。板倉は、多様な教育現象全体を一挙にとらえようとする従来の「教育学」では、多様な教育現象を科学的に研究することは実現できない[注釈 3]として、「問題の的を絞って、すべての人が認めざるを得ない法則性を一つ一つ明らかにして積み上げていく」近代科学の方法に倣って、「多くの教育現象の中でも限られた条件の下で反復して行われている学校の授業だけに焦点を当てて研究した方がいい」と考えた[7]。板倉はこの考えに従って仮説実験授業の授業書を作成することに成功した[8][9]。
「授業科学」は明治以降に欧米から輸入された「教授学」に対立するような響きを持つように板倉が造語した[10]。それまでの「教授学」が「ともすれば精神主義に走り、子どもたちの実態や認識のプロセスを客観的にとらえるという側面が弱かったことは否定し得ない」と板倉は述べて、「授業科学」という言葉はそのような体制的な「教授学」に対して、子どもや大衆の立場に立って教育現象を客観的・科学的に捉える学問を創造しようという願いの元に生まれた[7]。授業書は、「授業には教師やクラスの個性の違いによらない一定の法則性がある」という前提で作られている。授業書は「授業の法則性」を具体化したものである[11]。仮説実験授業の授業書は数十年にわたって多くの学校、科学教室などで使われ、その有効性が確かなものとなっている[12]。これによって「授業は法則的・科学的に研究するに値するものだ」ということが確立した[13]。
授業科学では、「個々の教師が作成した思いつき的な教材で授業するよりも、他クラスで成功した法則性を実現した授業プランで授業した方が成功するのが普通である」という授業観を持っている[14]。
一方で、板倉は「基本的な科学の法則が、そんなに簡単に発見されることがないのと同じように、魅力ある授業の内容となり得る授業の法則性はそう簡単には発見できないものである」ので、「従来の勇ましいスローガンだけの教育研究運動[注釈 4]とは比べものにならないぐらい、地道な研究をすすめる必要がある」と述べている[16]。
歴史
仮説実験授業の成立
授業科学は1963年(昭和38年)の仮説実験授業の提唱[17]から始まった。仮説実験授業では、その授業の成否の判断を子供の評価におき、「クラスのすべての子どもたちが科学とこの授業とが好きになるように、授業を組織する」と設定した[18]。最初の授業書を板倉と共に作成した上廻昭[注釈 5]は「研究の方法」を板倉から会得したと述べており[20]、その特徴がそのような「評価観」にあるとしている[21][注釈 6]。
板倉と上廻の共同研究で作成した初期の授業書は、その後の公立学校での実験授業の結果「授業書に基づいて授業を実施することによって、誰でも追試できる」ことが明らかとなった[22]。これらの理論と実験結果は1963年8月の科学教育研究協議会で発表され、授業研究を実験科学として成立させることに成功した[23]。
板倉聖宣は1966年(昭和41年)に仮説実験授業研究会を組織して、仮説実験授業の授業書作成や実験授業を組織的に行う態勢を作った。研究会の会則の第一条[24]には、
本会は,科学的な・だれでもが信頼して利用できるような(検証可能な)科学の教育・授業に関する法則の発見・確認を目的とし,これがために,会員そのほかの研究の交流・集積をはかるために設けられるものであって,当分の間その名称を仮説実験授業研究会とする。将来,会の内外に,科学の教育・授業に関する科学的研究の権威が確立されるようになれば,「日本科学教育学会」といったものに吸収されることになるであろう。
—仮説実験授業研究会会則第一条[24]
と授業科学の建設が宣言されている[注釈 7]。
科学教育からの拡大
仮説実験授業は最初に科学教育として成立したが、その研究対象は拡大した。板倉は「仮説実験授業の考え方が私たちの当初の考え方よりはるかに広範囲の教育の問題の解決に有効であることを明らかにしてきました」[9]と述べて、「仮説実験授業はもともと科学の授業の改革を意図して生まれたもの」だが、「科学の授業の改革を通して、一般に授業というものについての見方・考え方を変革するものにもなっていた」[25]として、仮説実験授業研究会の機関誌として1979年(昭和54年)に『授業科学研究』を創刊することで研究領域をもっと広く、あらゆる授業まで拡げる意図を明らかにした[25]。
授業科学の成果
授業科学の「授業に関する法則の発見・確認」を目的とした研究には以下のものがある。
水道方式
水道方式とは、数学教育協議会が提唱した、小学校で計算を教える授業方法で、仮説実験授業研究会会員によって授業プラン化されて使用されている[注釈 8]。
仮説実験授業研究会
2025年(令和7年)現在、科学の授業書だけでなく、社会の科学、数学、体育、国語、美術など多様な授業分野で、確実に一定水準の効果が出る授業プランなどが作られている[26]。
キミ子方式
キミ子方式は松本キミ子が発明した「誰でもたのしく絵が描ける指導方法」である。板倉聖宣は当初「芸術そのものの授業の法則性については介入の余地がないように思える」と考えていたが、松本キミ子の絵画指導法を知って「絵の授業でも明らかに授業の法則性を問題にしうる」ことを発見し、『授業科学研究』に松本キミ子の授業記録を掲載して仮説実験授業研究会に紹介した[27]。この時点で仮説実験授業研究会は科学教育の外にも研究領域を広げた[28]。
現在では黒田康夫[注釈 9]などが美術教育を授業科学の対象として研究成果を発表している[30]。
体育の授業プラン
2018年(平成30年)に峯岸昌弘[注釈 10]が、『たのしいマット運動への道』(仮説社)を発表し、体育の授業でも法則性に則った、だれでもまねできて一定の効果がある授業が開発されている[注釈 11]。
授業書方式の授業研究
仮説実験授業研究会に属さない一部の教育学者によって「授業書作成による授業研究」が試みられた[32]。
脚注
注釈
- ^ にい のぶまさ、1933年徳島県生まれ。小学校教諭。仮説実験授業研究会と数学教育協議会の会員。分数・小数・方程式などの授業書を作成した[3]。
- ^ みやち ゆうじ、NPO法人楽知ん研究所代表理事。仮説実験授業研究会会員。大学非常勤講師[5]。
- ^ 新居信正[注釈 1]は、戦後の指導要領の経過を簡単に解説した後「指導要領通り教えると、こんなにも授業が破綻しますよ」ということを、文部相自らが1億2千万の日本国民に、これでもかこれでもかと繰り返し、10年単位で実験結果を示し続けた壮大な実験の歴史」と痛烈に批判している。[4]。また宮地祐司[注釈 2]は「この戦後の歴史を見ても、〈生徒の自主性〉と〈学問の系統性〉、〈生徒の経験・興味の重視〉と〈学力の重視〉の間を行ったり来たりしていることがわかる。それにあわせた授業方法が流行しては廃っていくことが繰り返された。もちろん、教育における〈生徒の自主性〉と〈学問の系統性〉はどちらも捨て去ることはできないことは明らかである。しかし、今度は〈生徒の自主性〉、今度は〈学問の系統性〉と重点をずらすことをくり返しても解決しないことも、また自明である。」[6]と述べている。
- ^ 仮説実験授業の初期からの実践家である新居信正は、「やれ話し合いだ、民主教育だ、一人一人を生かす教育だ、子どものためになどとかけ声ばかりかけても、授業そのもので実現していかなければ幻想で終わってしまい、所詮菜っ葉の肥やしにもならない」「教育内容の目的と方法の検討を抜きにした一所懸命努力主義や良心主義は、教師の善意(主観)にかかわらず、子どもたちをして勉強嫌いにしてしまう」と従来の努力主義を「因習的官許教育観」と呼んで批判している[15]。
- ^ かみさこ あきら、1927年島根県生まれ。1955年から学習院初等科教諭。1965年成城学園初等学校教諭[19]。
- ^ 上廻は共同研究を始めたときに板倉から聞いた評価観として「教育の評価を、教育実践のすぐ後に行うということはできないという考え方をしていたのでは、教育の研究をすることができない。実験授業を評価する基準を授業を始める前に決めておいて、その授業を評価すれば良いのだ」と聞いたという。上廻は「教えた子どもたちの20年後30年後の姿を見なければ、教育の効果を評価することはできない」というのが(当時の)一般的な教育評価論で、私もそう考えていた、と振り返っている[21]。
- ^ この会則は1970年当時の記述で、2025年現在、「日本科学教育学会」は存在するが、仮説実験授業研究会とは関係ない[24]。
- ^ 水道方式をもとにした授業プランには、高村紀久男「20までのたし算・ひき算ドリル」「簡単なわり算のドリル」・井上正規「ひき算先習の計算ドリル」『たのしい授業』No.28、友渕洋司『加減乗除のすべて・PDF版(仮説社、初版2015年)』がある。
- ^ 1963年長崎県生まれ。京都の中学校美術教諭[29]。
- ^ 1976年群馬県桐生市に生まれる。群馬県の小学校教諭[31]
- ^ たとえばこれまでに峯岸が発表した体育の授業プランは、「オススメ体育プラン「ドラクエドッジ」」『たのしい授業』No.366、「たのしいマット運動への道」『たのしい授業』(仮説社)No.463~468に連載、「体つくり運動プラン〈飛び下り〉」『たのしい授業』No.478、「とめテンサッカー」『たのしい授業』No.491、「チームの決め方一点突破!」『たのしい授業』No.491、「ボールゲームプラン「シュートボール」」『たのしい授業』No.549、がある。
出典
- ^ 宮地祐司 2021, p. 129.
- ^ a b 板倉聖宣 1979a.
- ^ 新居信正 1983.
- ^ 新居信正 1993b.
- ^ 楽知ん研究所.
- ^ 宮地祐司 2021, p. 130.
- ^ a b 板倉聖宣 1979a, p. 9.
- ^ 板倉聖宣 1988, p. 339.
- ^ a b 板倉聖宣 1979a, p. 6.
- ^ 板倉聖宣 1979a, p. 7-8.
- ^ 板倉聖宣 1979a, p. 10.
- ^ 宮地祐司 2021, p. 136.
- ^ 板倉聖宣 1979a, p. 11.
- ^ 山田明彦・山田雅子 2010, p. 478.
- ^ 新居信正 1993, p. 195.
- ^ 板倉聖宣 1979a, p. 12.
- ^ 板倉聖宣 1974.
- ^ 板倉聖宣 1974, p. 207.
- ^ 上廻昭 1990c.
- ^ 上廻昭 1990b, p. 98.
- ^ a b 上廻昭 1990b, p. 99.
- ^ 板倉聖宣 1974, p. 20.
- ^ 上廻昭 1990a, p. 13.
- ^ a b c 会則 1975.
- ^ a b 板倉聖宣 1979a, p. 7.
- ^ どんな授業書があるか 2025.
- ^ 板倉聖宣1979b, p. 58.
- ^ 板倉聖宣 1979b.
- ^ 黒田康夫 2008.
- ^ 黒田康夫 2010.
- ^ 峯岸昌弘 2018.
- ^ 高村泰雄 1987.
参考文献
- 上廻昭「1 授業書の作成」『仮説実験授業への道』、明治図書、1990年、10-14頁。
- 上廻昭「4「研究の方法」を会得」『仮説実験授業への道』、明治図書、1990年、98-104頁。
- 上廻昭『仮説実験授業への道』明治図書、1990年。
- 板倉聖宣「仮説実験授業と授業書の一般論」『仮説実験授業 〈ばねと力〉によるその具体化』、仮説社、1974年、22-29頁。
- 板倉聖宣「授業科学とは何か」『授業科学研究』第1巻、仮説社、1979年、5-13頁。
- 板倉聖宣「絵を描くことと文章を書くこと」『授業科学研究』第2巻、仮説社、1979年、57-63頁。
- 高村泰雄「第1章 授業書方式による教授過程の基礎理論」『物理教授法の研究』、北海道大学図書刊行会、1987年、3-18頁。
- 新居信正「因習的官許教育観からの決別」『あとにムナシサだけが残る実践からの決別』、キリン館、1993年、191-202頁。
- 新居信正「戦後の教育を駆け足で見ると」『あとにムナシサだけが残る実践からの決別』、キリン館、1993b、157-162頁。
- 山田明彦、山田雅子「科学入門教育としての仮説実験授業 : 授業科学の成果としての授業書(ポスター発表,Session 5.科学教育の未来に向けて,京都大学基礎物理学研究所研究会「科学としての科学教育」,研究会報告)」『物性研究』第94巻第4号、物性研究刊行会、2010年、377-479頁。
- 宮地祐司「「探求的な学習」の基礎研究としての授業科学の形成と論理」『愛知県立芸術大学紀要』第51号、愛知県立芸術大学、2021年、129-144頁。
- “仮説実験授業研究会会則” (1975年). 2025年7月16日閲覧。
- “どんな授業書があるか” (2025年). 2025年7月16日閲覧。
- 板倉聖宣「仮説実験授業研究の現段階」『仮説実験授業の研究論と組織論』、国土社、1988年。
- 峯岸昌弘『たのしいマット運動への道 子ども達を楽しませるできる!の処方箋』仮説社、2018年。
- 新居信正『つるかめ算』仮説社、1983年。(荒井公毅『算数・数学の授業書 方程式入門』おけら書房、2025年で編集再版)
- 黒田康夫「黒田康夫作成図工美術の授業プラン,授業書案一覧」『たのしい授業』第364巻、2010年、245頁。
- 黒田康夫『牛乳パックでつくる和風ペン立て』仮説社、2008年。
- “NPO法人楽知ん研究所 組織と体制”. 2025年7月22日閲覧。
関連項目
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