持明院基規
持明院基規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 06:23 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 明応元年(1492年) |
死没 | 天文20年9月1日(1551年9月30日) |
改名 | 家親→基規 |
別名 | 号:一忍軒 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 後土御門天皇→後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 持明院家 |
父母 | 父:持明院基春 |
妻 | 水無瀬季兼の娘 |
子 | 基孝 |
持明院 基規(じみょういん もとのり)は、戦国時代の公卿。参議・持明院基春の子。官位は正三位・権中納言。持明院家15代。初名は家親(いえちか)。
経歴
明応4年(1495年)には従五位下に任じられ、大蔵卿・参議・右衛門督を経て権中納言となる[1]。
最終的に正三位に任じられた[1]。この間に美濃国や周防国にしばしば下向した。従来、天文20年(1551年)の周防滞在中、陶隆房が主君・大内義隆を討った謀反(大寧寺の変)に巻き込まれ、殺害された[1]とされていたが、萩原大輔は『言継卿記』などの記述から、大寧寺の変で殺害されたのは義隆の装束の師であった従四位下・冷泉範遠あるいは冷泉隆豊の一族のことであると明らかにした[2]。
官歴
『公卿補任』による
- 明応4年(1495年) 12月26日:叙爵(従五位下)
- 文亀3年(1503年) 7月29日:元服、従五位上、侍従
- 永正3年(1506年) 閏11月14日:正五位下
- 永正4年(1507年) 8月某日:左近衛少将
- 永正7年(1510年) 12月27日:従四位下
- 永正9年(1512年) 2月23日:転左近衛中将
- 永正11年(1514年) 5月25日:従四位上
- 永正15年(1518年) 正月19日:正四位下
- 大永2年(1522年) 3月29日:兼周防権介
- 大永3年(1523年) 12月30日:従三位、非参議、去中将
- 大永4年(1524年) 3月3日:大蔵卿
- 大永5年(1525年) 12月24日:参議、去卿
- 天文2年(1533年) 12月18日:正三位
- 天文4年(1535年) 7月26日:薨去(享年44)
系譜
脚注
参考文献
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