冷泉範遠とは? わかりやすく解説

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冷泉範遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/24 00:41 UTC 版)

 
冷泉 範遠
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文20年8月29日1551年9月29日)?[1]
天文20年9月28日(1551年10月27日)?[2]
別名 冷泉紹恵入道、一忍軒?[3]
官位 正五位下、左兵衛佐左馬頭
氏族 藤原北家長良流冷泉家
父母 父:冷泉永宣
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冷泉 範遠(れいぜい のりとお)は、戦国時代公卿。『知譜拙記』によると官位正五位下左馬頭[4]

概要

範遠は大内義隆の装束の師であった。萩原大輔は、大寧寺の変において殺害された「一忍軒」を範遠に比定している。そして、大寧寺の変において柳原資定、清原業賢、持明院基規、法性寺親世良は生存しており、変の翌年には飛鳥井雅綱雅教親子が山口に訪れていることから、陶隆房ら従来の大内氏被官には明確に目標とする公家がおり、それが大内氏家中にて発言権を持っていた小槻伊治と一忍軒(範遠か)であったとする[5]。ただし、『知譜拙記』では大寧寺の変から1ヶ月ほど経った天文20年9月28日(1551年10月27日)に死去したとされている[6]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  2. ^ 『知譜拙記』
  3. ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  4. ^ 『知譜拙記』
  5. ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  6. ^ 『知譜拙記』



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