冷泉範遠とは? わかりやすく解説

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冷泉範遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 04:41 UTC 版)

 
冷泉 範遠
時代 戦国時代
生誕 永正元年(1504年
死没 天文20年8月29日1551年9月29日)?[1]
天文20年9月28日(1551年10月27日)?[2]
別名 冷泉紹恵入道、一忍軒?[1]
官位 従四位下左兵衛佐
氏族 藤原北家長良流冷泉家
父母 父:冷泉永宣
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冷泉 範遠(れいぜい のりとお)は、戦国時代公家権中納言・冷泉永宣の子。官位従四位下左兵衛佐

概要

永正8年(1511年叙爵大永元年(1521年左兵衛佐に任官すると、大永6年(1526年左馬頭に遷り、大永7年(1527年)左兵衛佐に還任された。この間の大永5年(1525年従四位下に至るが、以降昇叙された形跡はなく公卿への昇進はならなかったとみられる。天文元年(1532年出家

山口に下向し、大内義隆の装束の師を務めた。天文20年(1551年)8月に発生した大寧寺の変において殺害された「一忍軒」が範遠に比定される(萩原大輔)。変において、柳原資定・清原業賢・持明院基規・法性寺親世らは生存しており、変の翌年には飛鳥井雅綱雅教親子が山口に訪れていることから、陶隆房ら従来の大内氏被官には明確に目標とする公家がおり、それが大内氏家中にて発言権を持っていた小槻伊治と一忍軒(範遠か)であったとする[1]。一方で、大寧寺の変から1ヶ月ほど経った9月28日に死去したともされる[2]

官歴

『諸家伝』による。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  2. ^ a b 『諸家知譜拙記』

参考文献

  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年



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