押小路烏丸殿の衰退と完全消滅とは? わかりやすく解説

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押小路烏丸殿の衰退と完全消滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:56 UTC 版)

押小路烏丸殿」の記事における「押小路烏丸殿の衰退と完全消滅」の解説

ところが、二条家居住して以後度重なる火災などの災害、そして応仁の乱にも被害を受けなかった筈の押小路烏丸殿文明9年11月11日1477年12月16日)に放火によって焼失してしまう(奇しくもこの日は大内軍の撤退によって応仁の乱戦闘事実上終了したであった)。9年後に建物再建されたものの、これを機に二条家当主急死が相次ぎ明応6年1497年)には2歳二条尹房当主となるがのちに大寧寺の変殺害されている)、政治的に経済的に没落一途辿っていった。戦国時代の『洛中洛外図』に二条殿立派な姿が描かれているが、実際に当主生活苦から各地大名頼って転々とし、邸宅施設荒廃して京都の人々身分の上下を問わず勝手に邸内侵入して庭や池を見て楽しむ有様であった。 その状況立て直したのが、織田信長の上洛いち早く支持した二条晴良であった。だが、天正4年1576年)に押小路烏丸殿気に入った信長二条晴良退去させ、自分在京時の城とすべく村井貞勝修繕工事命じた(「二条御新造」(現在歴史家の間で「二条城」と呼ばれることもある))。しかし、天正7年1579年)にはかねて目を掛けていた儲君誠仁親王御所として提供してしまう。以後二条新御所」・「下の御所」などと呼ばれていた二条御新造は、天正10年本能寺の変に際して信長嫡男織田信忠立て籠もったため明智光秀軍の襲撃受けて焼失跡地には一時羽柴秀吉により信忠菩提を弔うため大雲院創建されたが、間もなく寺町移転させられ秀吉の命により南北を走る新道(現「両替町通」)が開かれたため敷地分割以後民家金座銀座などに分割転用され、庭園荒廃消滅した

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