押小路烏丸殿の衰退と完全消滅
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ところが、二条家が居住して以後、度重なる火災などの災害、そして応仁の乱にも被害を受けなかった筈の押小路烏丸殿が文明9年11月11日(1477年12月16日)に放火によって焼失してしまう(奇しくもこの日は大内軍の撤退によって応仁の乱の戦闘が事実上終了した日であった)。9年後に建物は再建されたものの、これを機に二条家は当主の急死が相次ぎ(明応6年(1497年)には2歳の二条尹房が当主となるがのちに大寧寺の変で殺害されている)、政治的にも経済的にも没落の一途を辿っていった。戦国時代の『洛中洛外図』に二条殿の立派な姿が描かれているが、実際には当主は生活苦から各地の大名を頼って転々とし、邸宅の施設は荒廃して、京都の人々は身分の上下を問わずに勝手に邸内に侵入して庭や池を見て楽しむ有様であった。 その状況を立て直したのが、織田信長の上洛をいち早く支持した二条晴良であった。だが、天正4年(1576年)に押小路烏丸殿を気に入った信長は二条晴良を退去させ、自分の在京時の城とすべく村井貞勝に修繕工事を命じた(「二条御新造」(現在歴史家の間で「二条城」と呼ばれることもある))。しかし、天正7年(1579年)にはかねて目を掛けていた儲君誠仁親王に御所として提供してしまう。以後「二条新御所」・「下の御所」などと呼ばれていた二条御新造は、天正10年の本能寺の変に際して信長の嫡男織田信忠が立て籠もったため明智光秀軍の襲撃を受けて焼失、跡地には一時羽柴秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく寺町に移転させられ、秀吉の命により南北を走る新道(現「両替町通」)が開かれたため敷地は分割、以後民家や金座・銀座などに分割・転用され、庭園も荒廃・消滅した。
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