抗議と補償
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 15:11 UTC 版)
日本政府は撃沈直後から戦時国際法違反として抗議した。アメリカ政府もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案した。ただし、日本側も自分たちの条約違反を認識していたため、腰が引けた姿勢であった。戦後になり日本側から阿波丸の代船を提供することや6,150万ドルの賠償金を求める等の賠償請求が出され、アメリカ政府も当初はそれに応じる方針だったが、当時のGHQ司令官ダグラス・マッカーサーが賠償を強く拒否したため、交渉は暗礁に乗り上げた。身内からの反発に苦慮したアメリカ政府は、代案として当時アメリカが日本に対して行っていた有償食料援助の借款額を18億ドルから4億9千万ドルへ棒引きする代わりに、阿波丸の賠償請求権を放棄するよう求めた。アメリカ側の破格の提案に当時の日本政府もこれを了承し、1949年(昭和24年)に日本の国会は、阿波丸への賠償請求権を放棄し、日本政府がアメリカに代わって賠償を行う旨を決定した。結果的には十分とは言えないものの、当初日本側が考えていた以上にアメリカから事件への賠償を引き出すことに成功したかたちとなった。 1950年(昭和25年)、「阿波丸事件の見舞金に関する法律」(昭和25年法律第223号)が成立し、死亡者1人あたり7万円の見舞金を遺族へ支給した。また、阿波丸を失った船主の日本郵船には、1784万円が支給された。
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