戦士の文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 23:08 UTC 版)
ブラックフットの戦士たちは数百マイルも馬に乗って襲撃をしていただろう。少年が初めて戦士のバンドに加わるとき、ばかげた、または軽蔑的な名前を与えられた。しかし、彼が初めて馬を盗むか敵を殺せば、名誉のある名前を与えられた。戦士たちはカウンティング・クーと呼ばれた競技で勇敢さを見せ、社会的地位を高めるために努力した。クーは以下の順に重要だとされた。生存している敵から銃を獲得するまたは直接体に触る、槍や弓を獲得する、敵の頭皮を剥ぐまたは殺す、繋がれている敵の馬を自由にする、戦士のバンドを率いる、敵のバンドを偵察する、羽飾り、楯、パイプを盗む、解放された馬を連れて帰る。 ブラックフットと敵対関係にあった部族はグレートプレーンズではクロウ族、シャイアン族、スー族(ダコタ族、ラコタ族、ナコタ族の総称)、西や南西の山岳部ではショショーニ族、フラットヘッド族、カリスペル族、クーテネイ族、ネズ・パース族であった。最も強力で危険な敵は、政治・軍事・交易で連合したアイアン連合であった。連合はストーニー族(ナコダ族)、ソート―族(平原オジブワ族)、メティで構成されていた。 ショショーニ族はブラックフットよりもかなり早く馬を入手し、現在のアルバータ州・モンタナ州の大半、さらにワイオミング州の一部を占領し、度々ブラックフットを襲っていた。ブラックフットがハドソン湾会社からクリー族やアシニボイン族を経由して馬や銃を入手すると、状況は変わった。1787年までに、ブラックフットがショショーニ族の領域を完全に征服し、ショショーニ族の女子供を度々捕らえて強制的にブラックフットに同化させ、ショショーニ族に対して優位を拡大していたとデイビッド・トンプソンは報告した。トンプソンはまた、1787年のブラックフットの領域は、北はノースサスカチュワン川から南はミズーリ川まで、東西はロッキー山脈から東に480kmの範囲であったと報告した。 1790年から1850年にかけて、アイアン連合の勢力は絶頂期にあった。彼らはスー族やブラックフットの襲撃に対抗し、彼らの領域の防衛に成功した。バッファロー戦争と呼ばれた1850年から1870年の間、アイアン連合はバッファローを求めてブラックフットの領域により深く侵入した。そのため、ピーガン族はミズーリ川周辺から退くことを強いられた。カイナイ族はボウ川やベリ川から撤退したが、シクシカ族だけはレッドディア川に沿った伝統ある土地を守った。
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