慈光寺澄仲
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慈光寺 澄仲(じこうじ すみなか、正徳3年4月13日(1713年5月7日) - 寛政7年7月23日(1795年9月6日))は、江戸時代の公家。宮内権大輔・慈光寺房仲の子。官位は従二位・左馬権頭。
経歴
享保10年(1725年)元服し、正六位上・左近衛将監に叙任されるとともに、六位蔵人に補せられ中御門天皇に仕える。のち、中務大丞・春宮権少進(春宮は昭仁親王)を兼ねた。
享保20年(1735年)中御門天皇が昭仁親王(桜町天皇)に譲位すると、澄仲は引き続き六位蔵人に留任するとともに院判官代に任ぜられる。延享3年(1746年)遐仁親王の蔵人に補せられ、延享4年(1747年)桜町天皇が遐仁親王(桃園天皇)に譲位すると、再び六位蔵人に留任するとともに院判官代に任ぜられた。
その後も五位に昇らず六位蔵人のまま在任30年に亘り極臈(六位蔵人の年功者)となる。宝暦6年(1756年)9月に一時的に蔵人を辞すがまもなく再任されて、のちに二度目の極臈となり、その功労により堂上家に列せらた。明和元年(1764年)従五位下・左馬権頭に叙任されるとともに、再び昇殿を許される。その後は明和2年(1765年)従五位上、明和3年(1766年)正五位下、明和4年(1767年)従四位下、明和6年(1769年)従四位上、明和7年(1770年)正四位下と急速に昇進する。またこの間の明和2年(1765年)英仁親王(のち後桃園天皇)の蔵人に補せられている。
明和9年(1772年)従三位に叙せられ、慈光寺家として初めて公卿に列す。その後も昇進を続け、安永4年(1775年)正三位、安永7年(1778年)に従二位に至る。寛政7年(1795年)7月23日薨去。享年83。
官歴
『公卿補任』による。
- 享保10年(1725年) 9月13日:元服、六位蔵人、左近衛将監、正六位上、聴禁色昇殿等
- 享保12年(1727年) 閏正月15日:中務大丞、将監如元
- 享保13年(1728年) 6月11日:兼春宮権少進(春宮・昭仁親王)
- 享保20年(1735年) 3月9日:辞将監。3月:院判官代
- 元文4年(1739年) 正月20日:除服出仕復任(父)
- 延享3年(1746年) 3月16日:儲君親王蔵人(遐仁親王)
- 延享4年(1747年) 5月2日:院判官代
- 寛延3年(1750年) 11月29日:除服出仕復任(母)
- 宝暦6年(1756年) 9月28日:辞蔵人。9月30日:六位蔵人。12月:聴禁色昇殿等
- 明和元年(1764年) 閏12月13日:左馬権頭、従五位下、還昇
- 明和2年(1765年) 10月19日:従五位上(連年)。11月29日:儲君親王職事(英仁親王)
- 明和3年(1766年) 正月9日:正五位下(連年)
- 明和4年(1767年) 正月5日:従四位下(連年)
- 明和6年(1769年) 正月9日:従四位上
- 明和7年(1770年) 正月10日:正四位下(連年)
- 明和9年(1772年) 正月9日:従三位
- 安永4年(1775年) 後12月2日:正三位
- 安永7年(1778年) 正月10日:従二位
- 寛政7年(1795年) 7月23日:薨去
系譜
注記のないものは『系図纂要』による。
- 父:慈光寺房仲
- 母:家女房[1]
- 養子女
- 養子:慈光寺敦仲(1748-1768) - 実は千種有補の子、元は大原栄敦の養子
- 養子:慈光寺具仲(1749-1788) - 実は山本実覩の子
脚注
- ^ 『公卿補任』
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