愛宕神社 (館林市)とは? わかりやすく解説

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愛宕神社 (館林市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 21:03 UTC 版)

愛宕神社
所在地 群馬県館林市西本町9-59
位置 北緯36度15分05.4秒 東経139度31分43.6秒 / 北緯36.251500度 東経139.528778度 / 36.251500; 139.528778 (愛宕神社 (館林市))座標: 北緯36度15分05.4秒 東経139度31分43.6秒 / 北緯36.251500度 東経139.528778度 / 36.251500; 139.528778 (愛宕神社 (館林市))
主祭神 火産霊命宇迦之御魂神品陀和気命大山祇命八衢比古神、八衢比売神、久那斗神
創建 文武天皇4年(700年
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愛宕神社(あたごじんじゃ)は、群馬県館林市西本町神社

歴史

社伝によると、文武天皇4年(700年)に創建された[1]役小角山城国(現・京都府)の愛宕神社から分霊を勧請したという[1]文永10年(1273年)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼によって社殿が造営されると共に、別当寺として『興蔵寺』を境内に創建した[2]

室町から戦国にかけて館林の領主は赤井長尾北条氏と移り変わったが、そのいずれからも崇敬を受けた[2]天正18年(1590年)館林に入部した榊原康政は、文禄年間に当社を「館林市中総鎮守」と定めて社地5,000坪超を安堵し、慶長7年(1602年)には榊原氏の祈願所に定め、社殿を修復した[2]

徳川綱吉館林藩藩主になったのちに、寛文9年(1669年)に社殿を全て改築し、葵の紋章を付して祈願所とし、また自筆の「芦鷺絵」を奉納した[2]。さらに綱吉が江戸幕府第5代将軍に就いてからは、元禄10年(1697年)に社殿が修築されて公儀普請所に指定され、以後幕末まで社殿の修理は幕府または館林藩により行われた[2]

明治初期、「館林総鎮守」は、近代社格制度に基づく「郷社」に列せられた長良神社に取り上げられ、その摂社となった[1]

1908年(明治41年)の神社合祀により、周辺の5社が合祀された[1]

文化財

  • 青石地蔵板碑(群馬県指定重要文化財 昭和48年8月21日指定)[3]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c d 館林市史編さん委員会 編『館林市史 別巻 館林の寺社と史料』館林市、2020年、56p
  2. ^ a b c d e 川島維知 著『館林双書 第15巻 館林の社寺』館林市立図書館、1986年、28-29pp
  3. ^ 群馬県内の県指定文化財一覧群馬県、2p

参考文献

  • 館林市史編さん委員会 編『館林市史 別巻 館林の寺社と史料』館林市、2020年
  • 川島維知 著『館林双書 第15巻 館林の社寺』館林市立図書館、1986年



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