心身問題の言語的批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 08:42 UTC 版)
心身問題に答えようとするこれらの問題はどれも大きな問題に直面する。哲学者の中には、そうなってしまうのは概念的な混乱が背後にあるからだと論じる者もいる。したがって、これらの哲学者たち、たとえばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと言語的批判におけるその追従者たちは、心身問題は錯覚であるとして拒絶する。彼らは心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いだと論じる。むしろ、単に、人間の経験はいろいろな仕方で記述できる---たとえば心的な語彙で記述したり生物学的語彙で記述したりできる---のだということを受け入れなくてはならない。錯覚的な問題は、ある問題を別の語彙を使って記述したり、心的な語彙がまちがった文脈で使われたりしたときに生じる。これはたとえば、脳の心的状態を探したりするときに生じる。脳というのは心的な語彙を用いる文脈としては単純に間違っているのである。したがって、脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)、つまり一種の推論の誤謬なのである。 今日では、そういう立場はしばしばピーター・ハッカーのようなウィトゲンシュタインの解釈者によって採用されている。しかしながら、機能主義の創始者であるヒラリー・パトナムもまた、心身問題はウィトゲンシュタインのやり方で解消されるべき錯覚的な問題だという立場をとっている。
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