張による北京のソ連大使館捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:18 UTC 版)
「張作霖」の記事における「張による北京のソ連大使館捜索」の解説
「南京事件 (1927年)#ソ連大使館捜索」も参照 1927年3月3日、過激化する共産思想(赤化)を防ぐ為に国民革命軍(南軍)と戦う意思を国内外に示し、3月11日に南軍総攻撃を指令した。しかし、3月21日に国民革命軍が南京、上海を占領し、南京事件が発生した。欧米勢力の目にも国民革命軍の背後に明らかにソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るようになった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せた。 3月に起こった南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に中国共産党とソ連の策動(間接侵略)があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、同年4月6日、北京のソ連大使館官舎を奉天軍が家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった。張がソ連大使館官舎を家宅捜索したことについては日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの承認を得ていた。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ、各国の共産主義に対する警戒心は高まっていた。
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