弘頼以後の鷹山氏
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鷹山弘頼は前述の細川氏との関係もあってか、天文5年(1536年)からは細川氏の指揮下で活動しているが、天文11年(1542年)には畠山氏(政長流)に属している。そこでは河内への軍事動員権を行使し、安見宗房とともに「城州上三郡守護代」に任じられているなど、それまでの大和国人としての活動から脱却した動きを見せていたが、畠山氏内部の権力争いの中、天文22年(1553年)には自刃するに至った。 その後、弘頼の子・藤政が筒井氏への従属を強める様子が見られたり、あるいは筒井氏に敵する松永久秀に付く一族の動きが見られるなどするが、松永久秀が織田信長に降伏した天正元年(1573年)以降は筒井氏に従ったものと考えられる。 天正12年(1584年)には羽柴秀吉と対立する徳川家康に、鷹山鵜左衛門尉が味方していることが確認できる。 天正13年(1585年)、筒井氏が伊賀転封を命じられると、当時の鷹山氏当主・頼一はそれに従い鷹山を離れ、筒井氏改易後は松倉重政に仕えて肥前国島原で死去する。慶長7年(1602年)に鷹山で生まれた頼一の子・頼茂は母方の祖父・坂上尊忠とともに大坂の陣にて大坂城に籠城し、尊忠は道明寺の戦いで討死、頼茂は生き長らえたが逼塞する。その後柳生宗矩の口添えで森忠広に仕え、寛永10年(1633年)に忠広が死去すると丹後国宮津の京極高広に仕えた。正保4年(1647年)に暇を乞うと鷹山に近い奈良へと移り、貞享3年(1686年)に死去するまでをそこで過ごす。頼茂が宮津にいた時に生まれた子に東大寺大仏殿の再興に尽力したことで知られる公慶がおり、公慶は大仏殿再興の活動の中、鷹山氏と縁のある法楽寺や高山八幡宮にも訪れている。
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