弘頼以後の鷹山氏とは? わかりやすく解説

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弘頼以後の鷹山氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:39 UTC 版)

鷹山氏」の記事における「弘頼以後の鷹山氏」の解説

鷹山弘頼前述細川氏との関係もあってか、天文5年1536年)からは細川氏指揮下で活動しているが、天文11年1542年)には畠山氏(政長流)に属している。そこでは河内への軍事動員行使し安見宗房とともに城州上三郡守護代」に任じられているなど、それまで大和国人として活動から脱却した動き見せていたが、畠山氏内部権力争いの中、天文22年1553年)には自刃するに至ったその後、弘頼の子政が筒井氏への従属強め様子見られたり、あるいは筒井氏敵する松永久秀に付く一族動き見られるなどするが、松永久秀織田信長降伏した天正元年1573年以降筒井氏従ったものと考えられる天正12年1584年)には羽柴秀吉対立する徳川家康に、鷹山左衛門尉味方していることが確認できる天正13年1585年)、筒井氏伊賀転封命じられると、当時鷹山氏当主・頼一はそれに従い鷹山離れ筒井氏改易後松倉重政仕えて肥前国島原死去する慶長7年1602年)に鷹山生まれた頼一の子・頼茂は母方の祖父坂上尊忠とともに大坂の陣にて大坂城籠城し、尊忠道明寺の戦い討死、頼茂は生き長らえた逼塞する。その後柳生宗矩口添え森忠広仕え寛永10年1633年)に忠広が死去する丹後国宮津京極高広仕えた正保4年1647年)に暇を乞う鷹山に近い奈良へと移り貞享3年1686年)に死去するまでをそこで過ごす。頼茂が宮津にいた時に生まれた子に東大寺大仏殿再興尽力したことで知られる公慶がおり、公慶大仏殿再興活動の中、鷹山氏と縁のある法楽寺高山八幡宮にも訪れている。

※この「弘頼以後の鷹山氏」の解説は、「鷹山氏」の解説の一部です。
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