建設強行と開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 05:07 UTC 版)
1914年1月、本渓湖に駐屯していた日本軍より建設予定地附近で演習を行いたいとの申し入れが行われた。鉄道工事と無関係な演習であれば中国側も了承する可能性があり、「演習」を名目に工事を強行することが検討された。 演習は中国側の了解を得て実施されることになり、予備演習が始まると警官たちは警戒して近づかず、翌日から始まった本番の演習では地形上銃声が反射しやすいのを利用して銃声を轟かせると警官は完全に沈黙した。 警官の沈黙を確認した権太は、改めて募集した労務者を利用し鉄道建設を開始、工事進捗にあわせて演習が前進するさまは工兵の演習のようであった。 また日本軍隊長も自ら警察の駐屯地を表敬訪問、体面上抗議行動が行えない警官に演習を利用し心理的な圧迫を加えると、警官は駐屯地から退去した。 強引な工事により建設事務所を設置した権太は積極的に工事を推進した。南満州鉄道も大きな期待を寄せており、軽便鉄道時代の安奉線で使用されていた線路や枕木などの資材、さらには車輛までもが工事に投入された。 そして1914年2月1日、本線・太子河-牛心台と王官溝・紅瞼溝・小南溝・大南溝へ通じる貨物支線が開業し、「渓堿鉄路」が誕生した。 なお「渓堿鉄路」の名称は当初から決定されていたものではなく満鉄側の方針で堿廠まで延長する計画が定まった、着工直前に命名されたものである。
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