廃港とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:29 UTC 版)
突堤の崩壊によって大防波堤の必要性は誰の目にも明らかになったが、1885年(明治18年)のローウェンホルスト・ムルデルの調査の結果、およそ200万-600万円もの予算が必要になるとされた。当時の政府や東北の経済界にそれだけの資金はなく、港湾設備は廃棄された。代替港湾としてムルデルは牡鹿郡女川町への築港を内務省に上申したが、東北本線の整備が進んでいた事もあり、仙台湾周辺での大規模な港湾整備は大正時代の塩釜港着工まで見合わされた。また野蒜での反省を活かし、塩釜港では港湾本体よりも先に防波堤が整備された。 ドールンによる野蒜への築港提言に関しては、 年間を通じて風や波浪が強く、かつ、それを防ぐ防波堤の建設は困難であり、不適当な立地であった。 突堤に用いた粗朶の沈床は河川整備向けであり、強い波浪への耐久力が不十分である。 などの批判がある。一方で、土木局長として指揮を執った石井省一郎は、「十分な資金さえあれば石積みの強固な大防波堤を築き、有用な港湾が作れた」と後に述べており、資金面での制約が根本的な原因とする見方もある。
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