幼少期、後見時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:33 UTC 版)
父ヘンリク3世が1266年に死ぬと、幼いヘンリク4世は父方の叔父であるザルツブルク大司教ヴワディスワフの後見を受けた。その後大司教は子供を養育するのにザルツブルクとヴロツワフを行き来するのは不便だと思ったのか、翌1267年にヘンリク4世をボヘミアの首都プラハに連れてきた。このことはヘンリク4世がボヘミア王オタカル2世の宮廷で養育されることを意味しており、1270年にヴワディスワフが死ぬと、ヴロツワフ公国の統治はオタカル2世に委ねられた。 叔父が死んで間もなく(ヴワディスワフはヘンリク4世を全財産の相続人に指名した)、ヘンリク4世はヴロツワフに帰り、そこで亡き父の親しい助言者でボヘミア王の忠実な家臣であるシモン・ガリクサの監督を受けて育った。ヘンリク4世は入念な教育を受け、このことが後に騎士の文化や叙事詩に関心を抱かせる契機となった(ヘンリク4世は中世ポーランドにおいて初めて詩を書いた人物ではないかと推測されている)。 ヘンリク4世とオタカル2世との協力関係は良好で、ヘンリク4世は1271年にはボヘミアによるハンガリーへの軍事遠征に参加した。これに対し、ハンガリーの諸公は同盟者であるヴィエルコポルスカ及びマウォポルスカの諸公達と組んでヴロツワフを攻撃した。1273年、ヘンリク4世は成人したことを宣言し、公国の統治を自ら執り行うようになった。この時期からヘンリク4世はボヘミアからの独立を望むようになり、オポーレ公ヴワディスワフやポズナン公プシェミスウ2世(後にヴィエルコポルスカ公)と親しくなっていった。
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