平野へ移転
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「大阪教育大学附属平野小学校」の記事における「平野へ移転」の解説
1922年(大正11年)8月17日、大阪府女子師範学校に隣接する民家の新築工事現場で火災が発生し、大阪府女子師範学校の寄宿舎や食堂にも類焼した。 附属小学校には被害はなかったものの、火災の復旧の際に「かねてから校舎が老朽化していたことで近いうちに校舎改築が必要」「附属小学校が過密傾向にあり、拡張が必要になるが周囲が市街地化しているため拡張はままならない」などという点が考慮され、大阪府女子師範学校および附属学校園の郊外移転という形での復旧・設備拡充の方が適切だと判断された。 当時の東成郡平野郷町(1925年大阪市に編入し住吉区となる。分区で1943年東住吉区、1974年平野区)が大阪府女子師範学校を誘致し、移転先として6000坪の土地を1924年9月に大阪府に提供した。 1927年3月に平野(当時の住所表示では大阪市住吉区平野流町254番地)の現在地へと移転している。平野移転当初は附属小学校と附属幼稚園とで校舎を共有していたが、附属幼稚園は1963年に独立園舎へ移転している。 なお桃山の旧敷地は、1927年1月の火災で校舎を焼失した大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)が仮校舎として一時使用した後、1934年以降大阪府立夕陽丘高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)が使用している。
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平野へ移転
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「大阪教育大学附属幼稚園」の記事における「平野へ移転」の解説
1922年(大正11年)8月17日、大阪府女子師範学校に隣接する民家の新築工事現場で火災が発生し、大阪府女子師範学校の寄宿舎や食堂にも類焼した。 附属幼稚園には被害はなかったものの、火災の復旧の際に「かねてから校舎が老朽化していたことで近いうちに校舎改築が必要」「幼稚園と敷地を共有している附属小学校が過密傾向にあり、拡張が必要になるが周囲が市街地化しているため拡張はままならない」などという点が考慮され、大阪府女子師範学校および附属学校園の郊外移転という形での復旧・設備拡充の方が適切だと判断された。 当時の東成郡平野郷町(1925年大阪市に編入し住吉区となる。分区で1943年東住吉区、1974年平野区)が大阪府女子師範学校を誘致し、移転先として6000坪の土地を1924年9月に大阪府に提供した。 1927年3月に平野(当時の住所表示では大阪市住吉区平野流町254番地)の現在地へと移転。平野移転当初から1963年に独立園舎ができるまでは附属小学校とは校園舎を共有していた。 なお桃山の旧敷地は、1927年1月の火災で校舎を焼失した大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)が仮校舎として一時使用した後、1934年以降大阪府立夕陽丘高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)が使用している。
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