常盤盛敦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 14:55 UTC 版)
常盤家は山形藩時代からの会津松平家家臣である。家禄は150石。盛敦は太子流の免許を受け、会津藩の精鋭部隊・京都常詰御本隊御先備として幕末の京都に赴任し、明保野亭事件に居合わせている。1867年(慶応3年)12月12日夜、京都守護職屋敷前で薩摩藩士・村田新八、川村景明らと斬りあいに及び負傷。この際佐川官兵衛の弟・佐川又四郎は慙死した。その後幕末、維新期の戦闘に参加している。斗南藩では司民掛開拓課に出仕したが、会津に戻り警察官となる。警部補で退官後、会津中学武芸教師を務めた。盛敦の兄・常盤数馬は青龍足軽3番隊小隊頭として会津戦争で討死した。 <戦歴> 池田屋事件 禁門の変 鳥羽・伏見の戦い 戊辰戦争 佐賀の乱
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