岳陽楼記
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『岳陽樓記』(岳陽楼の記)は、1046年(慶暦6年)の作。政治上のつまずきから1044年(慶暦4年)に中央から地方の巴陵郡の守へ左遷された滕宗諒が、翌年、領内にある名勝の岳陽楼の修復を手掛けた際、楼上に古今の詩賦を刻むこととし、同じく左遷され河南鄭州にいた同年の進士范仲淹に作らせた文章である。范仲淹は岳陽楼も、そこから眺める洞庭湖の景色も見たことはなかったが、滕宗諒から贈られた「洞庭晩秋図」を見て、以前遊んだことのある太湖の思い出を結び付けて書き上げた。 冒頭で、滕宗諒の赴任により政道も行き届き、人心も落ち着いたため、荒れ果てた岳陽楼の修復に着手したことに触れたのち、岳陽楼から美しい洞庭湖を望むとき、荒涼とした冬やうららかな春の景色を見て心情が揺れ動くだろうが、真に優れた人物は見る物や私情に左右されず天下を憂うことが第一だとし、「天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)」と謳い、左遷された滕宗諒を慰め励ました。 『古文真宝』に収められ、名文として日本にも伝えられて広く知られ、また明治天皇の愛読書だった『宋名臣現行録』でも紹介されたことから、伊藤博文ら明治の元勲はじめ多くに読まれた。伊藤は岳陽楼記に登場する言葉「気象万千」を揮ごうし、琵琶湖疎水の第1トンネル入口の扁額とした。また、成島柳北は風光明媚な熱海の宿に「気象万千楼」という扁額を与え、宿の名とした。
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