屯田の父老の家のかすみけり
作 者 |
|
季 語 |
|
季 節 |
春 |
出 典 |
|
前 書 |
|
評 言 |
北海道旭川市。なかんずく、筆者の住地である東旭川は、旭川市でも、最も早く開けた所である。その始めは、明治二十五年頃から順次、国策として推進された屯田兵である。 屯田兵は、国防を担いつつ、新地の開拓にあたった人人である。集団で、本州各地から入地し、生活の困難を克服しつつ、次第に、その生活の基盤を整えていったのである。 筆者の祖父も、屯田入地の一人で、公式の記録に記されている。香川県から、家族と共に、入地を果たした。祖父の記憶はないが、父から、その詳細を伝えられている。私の家は、原住地を離れて、現在住している地に移ったが、故地を含めて、温かい帰属感の持てる場所である。 本コラムは、当旭川市のごくごく始期の俳句の世界を切り拓いた人、三人を挙げたいと思っている。始期、開拓の中で、なぜ、俳句かというと、それは、人の集団ができると、必ず、その中に文化を好む人がいて、仲間を集い、師を求めて活動するものである。この活動の姿は、二稿、三稿でも触れたいと思う。 碧梧桐は、全国行脚を志し、明治四十四年四月十一日、旭川市に到着した。著書『三千里』に状況は詳しいが、友人を訪れての旅であった。当時、まだ、水田には切株が残っており、それを見ながら、目的地に向かったという。上掲作にも、当時のたたずまいが、なつかしさを持って伝わってくる。 |
評 者 |
|
備 考 |
- 屯田の父老の家のかすみけりのページへのリンク