尾張浜主とは? わかりやすく解説

おわり‐の‐はまぬし〔をはり‐〕【尾張浜主】

読み方:おわりのはまぬし

平安初期雅楽家。笛と舞の名手で、大戸清上(おおとのきよがみ)とともに仁明(にんみょう)天皇時代の楽制改革中心人物遣唐使として渡唐している。生没年未詳


尾張浜主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/27 18:05 UTC 版)

 
尾張 浜主
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平5年(733年
死没 承和13年(846年)以降
官位 従五位下
主君 孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族 尾張
狛衆行室
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尾張 浜主(おわり の はまぬし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族楽人[1]位階従五位下大戸清上らと、日本雅楽の形成に重要な役割を果たす。

経歴

孝謙朝天平勝宝元年〔749年〕 - 天平宝字2年〔758年〕)において『採桑老』を舞い、天皇のにより『蘭陵王』のを改めたという[2]

天長10年(833年仁明天皇即位大嘗祭において舞を舞う。承和3年(836年遣唐使に随行してに渡り、舞の誤謬を正し龍笛の底を極めて、承和6年(839年)8月に帰国したとする伝もある[3]。なお、同年正月に従五位下に叙せられている。

承和12年(845年)既に113歳の高齢であったが、大極殿で行われた最勝会に際して、舞(和風の長寿楽、別名「春鶯囀」[4])を製作し、自ら上表して演じることを請い、1000人を超える観覧者の前で舞った。フグの模様のようなシミがある老人の姿で、起居するのも困難な様子であったが、曲が流れると少年のように舞った。四方の観客は皆「浜主は本当のまさに伶人(楽舞の人)である」と言ったという[5]。その翌々日には仁明天皇に召されて清涼殿でも長寿楽を演じ、天皇は感心して誉め称え、左右の者は感涙し、天皇から御衣を下賜された[6]。翌承和13年(846年)再び天皇に召されて清涼殿で舞を舞い、天皇にその高齢を憐れまれて、内位の従五位下に叙せられている。

なお、愛国百人一首に「翁とて侘やは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ」の一首が採られているが、これは先述の承和12年(845年)の清涼殿での舞の後に詠んだものである。

官歴

続日本後紀』による。

脚注

  1. ^ 尾張氏の嫡流は奈良時代に宿禰姓を賜与されているため、尾張氏の庶流出身と思われるが、系譜については不明。
  2. ^ 『教訓抄』
  3. ^ 『続教訓鈔』
  4. ^ 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』(三省堂、1993年) p305
  5. ^ 『続日本後紀』承和12年正月8日条
  6. ^ 『続日本後紀』承和12年正月10日条

参考文献




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