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尹祚乾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 01:59 UTC 版)

尹祚乾
『大満洲国要人画報』(1934年)
プロフィール
出生: 1887年光緒13年)12月[1][2][3][注 1]
死去: 1964年民国53年)[4][注 2]
出身地: 湖南省芷江県[1][2][3][4]
職業: 海軍軍人・実業家
各種表記
繁体字 尹祚乾
簡体字 尹祚乾
拼音 Yǐn Zuòqián
ラテン字 Yin Tso-ch’ien
和名表記: いん そけん
発音転記: イン・ツォーチエン
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尹 祚乾(いん そけん、1887年 〈光緖3年〉12月 – 1964年 〈民国53年〉)は、中華民国満洲国の海軍軍人・実業家。中華民国では東北艦隊に所属し、満洲国では江防艦隊司令官・江上軍司令官となる。後に南京国民政府(汪兆銘政権)に転じた。

事績

満洲国以前の経歴

幼い頃から学を好み、1903年(光緒29年)に日本へ留学する[5]1910年(明治43年)4月5日、東京高等商船学校航海科を卒業[6]。その後、海軍砲術学校海軍水雷学校も卒業した[1][2]

帰国直後に辛亥革命が勃発すると、尹祚乾は上海で革命派に加わり、滬軍都督府海軍陸戦隊大隊長をつとめた[4]1913年(民国2年)1月31日、北京政府で海軍少校となる[7]1922年(民国11年)7月、「利済」艦長となり、以後、「利捷」艦長、「江亭」艦長を歴任している[2]。なお、1927年(民国16年)7月23日に海軍中校の位を授与された[7]国民政府では張学良率いる東北軍で「江興」艦長となり、ソ連海軍とも交戦したことがある[5]

江防艦隊・江上軍司令官

1931年(民国20年)9月に満洲事変が勃発すると、東北艦隊総指揮官・沈鴻烈、艦隊司令官・許剛哲らは南方へ逃れたが、総教練官兼海軍補充隊大隊長の尹祚乾は東北に残留した。尹は海軍少佐・佐々木高信と交渉し、翌1932年(民国21年)2月15日、東北艦隊の艦艇5隻をハルビンで日本側に引き渡している[8]

満洲国建国後の同年(大同元年)8月、尹祚乾は海軍少将江防艦隊司令官に就任し、1935年康徳2年)8月、海軍中将に昇進した[1][2]1939年(康徳6年)2月、陸軍中将江上軍司令官となった[9]。しかし1941年(康徳8年)3月3日、尹は軍事諮義官に移されて江防艦隊・江上軍に対する指揮権を喪失し、李文龍が後任の江上軍司令官となった[10][注 3]

汪兆銘政権への移籍

同年(民国30年)、南京国民政府(汪兆銘政権)軍事委員会委員[注 4]凌霄の推薦により、尹祚乾は南京国民政府に移籍した[5]1942年(民国31年)10月2日、尹は南京要港中将司令に任命されている[11]。同年中に海軍上将へ昇進し、翌1943年(民国32年)10月10日には凌と共に陸軍少将も兼ねた[12]。しかし、この頃から汪兆銘政権の陸海軍人間で内部対立が激化したため、1944年(民国33年)3月、尹はいったん軍人を引退し、南京市で内河輪船公司経理となっている[5]

日本敗北後、尹祚乾は漢奸の名簿にいったんは入れられたが、後になって蔣介石の手配により実際の訴追を免れた模様である[注 5]1949年(民国38年)、台湾に逃れ、海軍司令の1人として再起用された。晩年は軍人を再引退して実業界に入った[5]

1964年(民国53年)、死去[4]。享年78。

注釈

  1. ^ 夏(1997)、87頁は「1886年生」としているが、尾崎監修(1940)、外務省情報部編(1937)、満蒙資料協会編(1940)に従う。
  2. ^ 夏(1997)、87頁によれば「1965年没」。
  3. ^ 当時の李文龍(奉天陸軍講武堂卒)は陸軍中将・治安部参謀司附・駐日大使館附武官であったが、海軍軍人としての履歴はほぼ見当たらない。
  4. ^ 夏(1997)、86頁は「海軍部長」としているが、当時の凌霄は軍事委員会委員専任のため、誤りである。
  5. ^ その一方で凌霄は漢奸の罪に問われ、1946年6月24日、汪兆銘政権の軍人としては、真っ先に銃殺刑に処された3人の内の1人となった。

出典

  1. ^ a b c d 尾崎監修(1940)、4頁。
  2. ^ a b c d e 外務省情報部編(1937)。
  3. ^ a b 満蒙資料協会編(1940)、1453頁。
  4. ^ a b c d 民國近代史料「尹祚乾」
  5. ^ a b c d e 夏(1997)、87頁。
  6. ^ 『東京高等商船学校一覧 自大正14年至15年』東京高等商船学校、258頁。なお、「廣海科」と誤記されているが、修正する。
  7. ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:尹祚乾」
  8. ^ 西井編(1981)、305頁。
  9. ^ 満蒙資料協会編(1940)、1453頁。
  10. ^ 「満洲国軍首脳異動」『同盟旬報』5巻7号通号134号、昭和16年3月上旬号(20日発行)、同盟通信社、58頁。
  11. ^ 『日文国民政府彙報』第138号、民国31年10月12日、中国和文出版社、1頁。
  12. ^ 『日文国民政府彙報』第202号、民国32年11月6日、中国和文出版社、2頁。

参考文献

  • 夏昌斌「尹祚乾将軍簡介」『懐化人物伝』中国人民政治協商会議懐化市委員会文史資料研究委員会、1997年。 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。 
  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲帝国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。 
  • 西井務編『高等商船学校出身者の戦歴 海軍士官編』高等商船学校出身者の戦歴海軍士官編刊行会、1981年。 



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