小比叡騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:23 UTC 版)
慶安5年(1652年)、相川町奉行であった辻藤左衛門信俊が上役との軋轢から騒乱となり、一族と共に蓮華峰寺に立てこもるという事件が起こった。これを「小比叡騒動」または「蓮華峰寺の乱」という。 辻藤は世情に通じ有能であったため相川町奉行に抜擢されたが、当時、佐渡奉行所に横行していた役人の腐敗、不正を憤り上役に綱紀粛正を迫った。こうした辻藤の行動は上役、同輩から疎んじられ、抜擢人事への妬みもあり次第に孤立していった。些細な不始末を理由に小木町番所役に降格、左遷されると辻藤は江戸への告発を試みる。しかし、知人に託した訴状が船の難破で海岸に漂着し上役に知られると、辻藤と奉行所の対立は決定的になってしまう。 役向きで相川に向かった辻藤が旧知の住職を訪ねるため蓮華峰寺に立ち寄ると、奉行所側はこれを謀反篭城であると断罪して武力鎮圧に向かった。辻藤とその一族は蓮華峰寺と、寺に隣接する小比叡城に立てこもり応戦するが、最後には全員が自害した。辻藤に加担したとみなされた蓮華峰寺住職の快慶は獄門にかけられた。 この事件の発端は奉行所と一役人の間のささいな感情のもつれであったが、慶安の変直後の世情とあいまって奉行所側の過剰反応を誘発してしまったとするのが定説である。また、当時、蓮華峰寺の寺領から砂金が発見されており、この採取権をめぐる蓮華峰寺と奉行所の対立が背景にあるとする説もある。
※この「小比叡騒動」の解説は、「蓮華峰寺」の解説の一部です。
「小比叡騒動」を含む「蓮華峰寺」の記事については、「蓮華峰寺」の概要を参照ください。
- 小比叡騒動のページへのリンク