富士川水運と鰍沢河岸の盛衰
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「鰍沢河岸」の記事における「富士川水運と鰍沢河岸の盛衰」の解説
鰍沢河岸は富士川右岸の柵に囲まれた一角で、同じ右岸上流に青柳河岸、対岸の左岸上流に黒沢河岸が位置していた。山側には陸路で甲駿を結ぶ駿州往還(河内路)が平行して通り、鰍沢は陸上交通とも関係した要衝となっている。 富士川水運は年貢米の江戸廻送を目的に、角倉了以が富士川を開削して開始された(開始時期は慶長12年 - 19年まで諸説ある)。寛永9年(1632年)には一般物資に加えて御廻米(ごかいまい)が開始され、甲府盆地の国中三郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)からの年貢米を集積して江戸へ向けて廻送される(年代は青山靖による)。享保9年(1724年)に甲府藩主・柳沢氏の転封により甲斐一国が幕府直轄領になると、在方は代官支配となる。鰍沢河岸には甲府代官所管轄下の北山筋・逸見筋地域の年貢米が集積されていた。集積された年貢米は岩淵河岸(静岡県富士市)、蒲原(同県静岡市清水区)を経て清水港(同)から江戸へ送られ、最終的には浅草蔵前に集積された。 富士川舟運の帰り船では商人荷の積載が許され、塩や海産物など甲州にとっての重要物産はじめ、米穀や駿州往還の途上に位置する身延山久遠寺へ参詣する参詣客などの人員や物資を輸送した。後に甲斐国のみならず信濃国の諏訪藩、松本藩、高遠藩の年貢米も集積され広域流通圏の拠点となり、河岸の北側には鰍沢宿が発達し問屋街が立ち並んでいた。河岸には御米蔵のほか検査所や詰所などの施設で構成される御蔵台があり、南端には口留番所が設置されており、出向した代官が人や物資の往来を監視していた。 明治以降は廻米の回送が行われなくなったが、1875年(明治8年)には富士川運輸会社が創立され20世紀初めまで盛期は続いた。その後、中央本線や富士身延鉄道(身延線)などの近代的な鉄道整備の影響を受け、富士川舟運のみならず山梨県内の水運は衰微する。
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