富士川水運と鰍沢河岸の盛衰とは? わかりやすく解説

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富士川水運と鰍沢河岸の盛衰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 08:12 UTC 版)

鰍沢河岸」の記事における「富士川水運と鰍沢河岸の盛衰」の解説

鰍沢河岸富士川右岸の柵に囲まれ一角で、同じ右岸上流青柳河岸対岸左岸上流黒沢河岸位置していた。山側には陸路で甲駿を結ぶ駿州往還河内路)が平行して通り鰍沢陸上交通とも関係した要衝となっている。 富士川水運年貢米江戸廻送を目的に、角倉了以富士川開削して開始された(開始時期慶長12年 - 19年まで諸説ある)。寛永9年1632年)には一般物資加えて御廻米ごかいまい)が開始され甲府盆地国中三郡(巨摩郡山梨郡八代郡)からの年貢米集積して江戸へ向けて廻送される(年代青山靖による)。享保9年1724年)に甲府藩主・柳沢氏転封により甲斐一国幕府直轄領になると、在方代官支配となる。鰍沢河岸には甲府代官所管轄下の北山筋逸見筋地域年貢米集積されていた。集積され年貢米岩淵河岸静岡県富士市)、蒲原同県静岡市清水区)を経て清水港(同)から江戸へ送られ最終的に浅草蔵前集積された。 富士川舟運帰り船では商人荷の積載許され、塩や海産物など甲州にとっての重要物産はじめ、米穀駿州往還途上位置する身延山久遠寺参詣する参詣客などの人員物資輸送した。後に甲斐国のみならず信濃国諏訪藩松本藩高遠藩年貢米集積され広域流通圏の拠点となり、河岸北側には鰍沢宿が発達し問屋街立ち並んでいた。河岸には御米蔵のほか検査所や詰所などの施設構成される御蔵台があり、南端には口留番所設置されており、出向した代官が人や物資往来監視していた。 明治以降廻米回送が行われなくなったが、1875年明治8年)には富士川運輸会社創立され20世紀初めまで盛期続いたその後中央本線富士身延鉄道身延線)などの近代的な鉄道整備影響を受け、富士川舟運のみならず山梨県内水運衰微する

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「富士川水運と鰍沢河岸の盛衰」を含む「鰍沢河岸」の記事については、「鰍沢河岸」の概要を参照ください。

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