家老制の弊害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 03:46 UTC 版)
2人から数人程度の家老が合議制で藩政にあたるわけであるが、政治改革や世継ぎ問題に絡んで派閥抗争が起きることが多かった。このような抗争が「お家騒動」の元凶となり、最悪の場合は改易にまで至ることがあった。 特に、藩政改革のために取り立てられて藩主の信認を背景として独裁的に改革を推進しようとする家老や年寄・奉行と、保守的な重臣、一族の意見を代表する門閥家老との対立は定番と言える光景で、藩論を二分して血で血を洗う抗争につながったり、改革派家老の失脚とともに藩主が隠居に追い込まれるなどの政争も見られた。 また、徳川家斉治世中(大御所時代)、御三家の付家老は自身らの独立のために将軍の子女を藩主や藩主正室にするように画策し、藩内対立や、将軍の子女を迎えることによる藩財政悪化を引き起こしている。また、幕府においては側用人が大老格や老中格になると、本職の大老や老中と同様の格式と加判の特権を持ちながら側用人の業務を行うので、老中に対抗できる権勢を有することになる。こういった人物として柳沢吉保や田沼意次、水野忠成が著名で、彼らは幕府権臣としても著名である。
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