家老に慈悲を願う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 03:07 UTC 版)
「大久保忠兼 (旗本)」の記事における「家老に慈悲を願う」の解説
宝永5年(1708年)12月に方ノ上村の庄屋・三郎兵衛、平十郎と惣百姓代・六兵衛、弥左衛門、万右衛門が、大久保家の家老・渡辺彦兵衛に宛てた、方ノ上村の追放百姓3名(新五郎・孫七郎・平太夫)の「乍恐口上書を以奉願上候御事」(恐れながら書付をもって願上奉り候)という決まり文句から始まる赦免願いに当時の様子を知ることが出来る。内容は下記の通りである。 8年前の元禄13年(1700年)の巳の暮のこと。新五郎・孫七郎・平太夫の3名は進んでいない訴訟を役所に持って行ったが、取り上げてくれなかったので、江戸へ行き訴訟の話を申し上げた。殿様に無礼であった。申し訳ない。 家老が詮議し申し渡した内容は、「3人は追放。3人の石高49石を召し上げる。」というものだが、方ノ上村は岡部町の人馬役を多くしていますが、3人がいないと、お役をするのに難儀している。役所より五貫文ほどの銭を頂いているが、3人の石高の5分の1にも届いていない。惣百姓は困っている。新五郎の妻子は8人、孫七郎親子供は10人。平太夫義のせがれの平八の妻子は5人。とても困っている。朝昼に悲しみに明け暮れている。他にいる3人の者どもの親類も、許されるのを願っている。近年御役所まで訴訟申し上げども、取り上げてくれない。殿様は御在番でお越し遊ばれているので、今年は役所までたびたび訴訟申し上げている。恐れながら、3人を許してくれるよう慈悲をくれ。
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