実名について
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当時の多くの史料においては、「寿里庵恕鑑」という法名で記録されている人物である。その系譜上の実名は「信保」とされており(『真里谷殿位牌系図』)、確かな史料の上での根拠はなかったが、従来の通説的見解は恕鑑の実名をそのまま信保としてきた。 近年、黒田基樹は当時の史料を精査し、恕鑑在世時の真里谷武田氏の当主と見られる人物が「式部丞信清」と署名した銘の存在を発見し、それに基づき恕鑑の実名を「信清」と推定した。ただし、「信清」は小田喜城(大多喜城)の築城者として同名の人物がおり、小田喜武田氏の祖としての記録が存在し(東長寺所蔵『上総国大多喜根古屋城主武田殿系図』)、その子孫の系譜として、子の真里谷直信、孫の真里谷朝信の流れが別個にある。黒田はこの系図については、大多喜武田氏と真里谷武田氏との深い関連性を示すものであるとはしつつも誤伝であるとする。一方、「信保」と『真里谷殿位牌系図』に記録がある人物について、黒田はこの人物については真里谷武田氏の家督ないし家督代行者の地位にあった人物であることは肯定しつつも、恕鑑の父である信嗣(信勝)の庶子か弟にあたる「信秋」の別名で、法名「全方」(全芳)で知られる人物と同一人物である可能性を示唆している。 いずれにせよ、さらなる研究や異論を挟む余地は多く存在しており、「恕鑑」の実名に関しては明確な答えは存在しないのが現状ではある。
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実名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 04:42 UTC 版)
遠江天野氏の諸系図記録類には「虎景」の子を「藤秀」、「藤秀」の子を「景貫」とされているが、「藤秀」と「景貫」は実際には同一人物であり、実名は「藤秀」が正しいとされる。「藤秀」は天正4年(1576年)以降に犬居にて死去し、その子「景貫」が天野氏の官途・宮内右衛門尉を名乗ったとする説もあるが、現在は基本的に両者を同一人物とみなして実名を「藤秀」とみなすものが通説となっている。
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実名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 20:34 UTC 版)
実名は一般的に「信利」で知られるが、寛文10年まで「信澄」、延宝2年まで「信俊」、翌年から「信直」と改名しており、「信利」と名乗ったことは一度もない。「信利」の名は『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』にみられるが、「信俊」と音通する際の共通項がある以外、「信利」名乗りを使用した史料はいまだ見出されていない。
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