宗密とは? わかりやすく解説

しゅうみつ【宗密】

読み方:しゅうみつ

780〜841]中国唐代の僧。華厳宗第五祖。果州四川省)・四充の人。禅と華厳とを統合した教禅一致唱えた。著「原人(げんにん)論」「禅源諸詮集都序」。圭峰大師。すみつ。


しゅうみつ 【宗密】


圭峰宗密

(宗密 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/17 13:41 UTC 版)

圭峰宗密
建中元年 - 会昌元年1月6日
780年 - 841年2月1日
諡号 定慧禅師
生地 果州西充県
没地 草堂寺
宗派 華厳宗
寺院 終南山草堂寺
道円、南印、神照、澄観
著作禅源諸詮集都序
『原人論』
『裴休拾遺問』
テンプレートを表示

圭峰宗密(けいほう しゅうみつ)は、中国代の禅僧。中国華厳宗の第五祖とされる。定慧禅師。俗姓は何、名は炯。果州西充県の出身。

当時の仏教界において、禅宗の一派である荷沢宗と華厳宗とを中心として、諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた。また、その著『原人論』では、儒教道教も仏教のもとに統合しようとする「三教融合」の試みもはかられている。

最初は儒教を学んだのだが、その後、仏教に転向し、25歳の時に出家して道円に師事した。後に、『円覚経』及び杜順撰『法界観門』に出会い、自身の立つ立場を確固たるものとした。

29歳で具足戒を受け、元和3年(808年)になって師の指示によって、師の師である南印に師事し、その後洛陽に入り、南印の弟子である報国寺の神照に禅を学んだ。さらに、元和6年(811年)に澄観に師事し、華厳を究めた。そのため、宗密は華厳宗第5祖とされる。以後、著作または講筵によって名声を確立した。

長慶元年(821年)以後、終南山の草堂寺に住して、『円覚経大疏鈔』等の撰述に没入した。

大和2年(828年)、文宗の召致により、長安に入内し、紫衣を賜った。その後、裴休と交流が生まれ、彼の質問に返答するという形式によって、『裴休拾遺問』を著した。

宗密の思想は、当時の仏教界を席巻していた馬祖禅に対する強烈な対抗意識によって貫かれている。しかし、洪州宗の絶大な力の前には屈するしかなかった。その思想が注目されるのは、五代法眼宗の禅僧永明延寿が提唱した教禅一致思想、更には三教一致思想が大きな潮流となる後世のことである。

代表的な著作として『禅源諸詮集都序』等がある。

会昌元年(841年)正月、草堂寺で没した。裴休に「圭峰禅師碑銘并序」がある。

伝記

  • 宋高僧伝』巻6「義解篇」第2-3 「唐圭峰草堂寺宗密伝」


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宗密」の関連用語

宗密のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宗密のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの圭峰宗密 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS