子どもたちとの別れと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「子どもたちとの別れと死」の解説
死の直前まで愛に生きたふみ子は、一方では子ども思いの母親でもあった。長女、雪子の回想によれば、帯広時代は料理、裁縫などといった家事や育児に手を抜かない、家庭的でやさしい母親であった。入院中もこまめに子どもたちに手紙を書き続け、ふみ子のもとで成長していた長男の孝、長女の雪子ばかりでなく、札幌の中城家に引き取られていた三男の潔も、別夫中城博の再婚相手の女性や、博の継母に連れられてしばしば病室にふみ子を見舞った。なお歌友の大塚陽子の回想によれば、病室での子どもとのやり取りは世間一般の母親のそれであったというが、ふみ子が関心を抱く男性がやって来ると、いきなり子どもを邪険に扱っていたという。 中井がふみ子の病室に留まっていた7月31日、ふみ子と子どもたちの事実上のお別れがあった。子どもたちはめいめいふみ子の手を取って頬ずりをした。ふみ子は子どもたちに対して「もう、お別れね」と伝えた。母の言葉を聞いた長男の孝は病室のドアにしがみつき、帰りたくないと泣きじゃくりだした。ふみ子もまた涙ぐみながら孝のことを慰めた。 ふみ子が食べものを受け付けたのは8月2日までであった。翌3日の朝、ふみ子の意識は清明であり、胸部の苦しみを訴え続けた。午前10時40分過ぎくらいから脈拍が弱くなっていき、午前10時50分、中城ふみ子は亡くなった。31歳であった。ふみ子の最期の言葉は「死にたくない」であったとの説と、容体の急変にうろたえる母を制する「お母さん、騒がないで」であったとの説がある。遺族の意向により、墓碑の所在は公開されていない。
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