娘千枝と養子銕胤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:11 UTC 版)
文政7年(1824年)1月15日、千枝が、伊予国新谷藩の碧川篤真と結婚した。千枝は才女として知られ、一度目に通したものはすべて諳んじ、父篤胤の著述については、何を尋ねてもすらすら答えることが出来たという。英語もたしなみ、文章も巧みで文字も美しく、父の詠んだ和歌を短冊に代筆している。千枝はのちにおてう(お長)に改名し、また晩年には母の名である織瀬を受け継いでいる。1888年(明治21年)3月没。その死に際しては正座して周囲に臨終の挨拶を行い、「それでは」と床についてそのまま帰幽したと伝わっている。 詳細は「平田鐵胤」を参照 碧川篤真は篤胤二大高弟のひとり碧川好尚の実兄で、平田家の養嗣子となり平田銕胤(鐵胤)を名乗った。銕胤は内蔵介のち大角とも名乗り、1868年(明治元年)には神祇官判事に任じられ、明治天皇の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、また、先代の負債を清算した。著書に『祝詞正訓』がある。1880年(明治13年)10月15日に没した。
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