威德王 (百濟)とは? わかりやすく解説

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威徳王 (百済)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/03 00:41 UTC 版)

威徳王
百済
27代国王
王朝 百済
在位期間 554年 - 598年
姓・諱 扶余 昌
生年 525年?
没年 598年12月
聖王
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威德王
各種表記
ハングル 위덕왕
漢字 威德王
発音 ウィドクワン
日本語読み: いとくおう
ローマ字 Wideok-wang
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威徳王(いとくおう、525年? - 598年12月)は、百済の第27代の王(在位:554年 - 598年)。先代の聖王の長子。

は『三国史記』百済本紀・威徳王紀では昌、『三国遺事』王暦では高、または明。554年7月に先王が戦死したので王位についた。『日本書紀』によれば、生年は525年頃と推測され[1]、聖王の死後すぐには即位せず557年3月に即位したとされる。『隋書』などには余昌と記される。

生涯

即位前後

554年7月に聖王は新羅を討とうとして、家臣が諌めるのも聞かず兵を起こし、大伽耶慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき、威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。[2]新羅は余勢を駆って百済を攻め滅ぼそうとしたが、背後に憂いがあるため取りやめになった。同年10月高句麗は熊川城[3]に侵攻してきたがこれを撃退した。『三国史記』百済本紀では聖王の死後直ちに即位して王として高句麗戦にあたったとするが、『日本書紀』では欽明天皇16年(555年)2月条に威徳王は弟の恵(後の恵王)を送ってきて聖王の死を伝えたこと、同年8月条には王位につかずに僧となろうとしたこと、欽明天皇18年(557年)3月に威徳王が即位したと記している。

治世

即位の後は中国北朝の北斉北周、南朝の朝貢して冊封体制下に入り、倭・伽耶諸国と呼応して新羅高句麗との戦いを続けた。561年7月には欽明天皇の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、新羅の策略にはまり敗北して撤退している。[4]任那はこのころ滅亡し、伽耶諸国は完全に新羅に属するようになった。[5]

570年には、北斉の後主に使節を送り「使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王」に封じられ、翌571年には同じく北斉から「使持節・都督・東青州諸軍事・東青州刺史に封じられた。北斉が滅び隋が興ると、581年に隋に使節を送り「上開府・儀同三司・帯方郡公」に封じられた。589年には、陳を平定した隋の軍船が耽牟羅国済州島)にたどり着き、威徳王はこの船が帰るときに援助するとともに、隋に使者を送って中華統一を祝賀した。このことを隋では喜んで、毎年の朝貢は不要との免除を与えた。598年9月には隋に使者を送って、高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出たが、既に戦争は一段落していたために話は沙汰やみになった。その事を聞きつけた高句麗は百済に侵攻してくることとなった。

在位45年にして598年12月に死去し、群臣が協議して威徳王と諡した。

陵山里寺址

王陵とされる陵山里古墳群(忠清南道扶余郡)の一角から1993年に寺址が発見され、石造の舎利龕に「百済昌王十三季太歳在, 丁亥妹兄公主供養舎利」という銘文があった。[6]この銘文の発見により、陵山里寺が王室関係の寺院であることが確認された。

登場作品

テレビドラマ

関連項目

脚注

  1. ^ 日本書紀 巻十九 欽明天皇紀 十四年 冬十月庚寅朔己酉
  2. ^ 『日本書紀』舒明天皇15年条
  3. ^ 熊津忠清南道公州市)と見るのが有力だが、京畿道安城市の安城川付近と見る説もある。
  4. ^ この百済と新羅との抗争について、『三国史記』百済本紀は威徳王8年(561年)とするが、新羅本紀は真興王23年(562年)、『日本書紀』は欽明天皇23年(562年)とする。
  5. ^ 『三国史記』新羅本紀では、562年8月に伽耶諸国が反乱を起こしたことと、新羅の将軍の異斯夫斯多含の前にすべて降伏したことを伝えている。
  6. ^ 昌王(威徳王)の丁亥年は567年に当たる。『三国史記』百済本紀や年表では丁亥年を王の14年としているが、先代の聖王の薨去は554年7月であり、立年称元であれば威徳王14年、踰年称元であれば威徳王13年となる。立年・踰年については改元を参照。
  7. ^ 「系図纂要」、内閣文庫号外七
  8. ^ 松田甲日鮮史話 第2編朝鮮総督府、1926年、1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981486/6 
  9. ^ 山口県史 上巻』山口県史編纂所、1934年、60頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226148/100 
  10. ^ 大森金五郎『国史概説』日本歴史地理学会、1910年、481-484頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769275/269 
  11. ^ 岡田僑『日本外史補 新訳新潮社、1912年、40頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770670/38 
  12. ^ 妹尾薇谷『日本史蹟文庫 群雄の争乱』岡田文祥堂、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905865/25 

参考文献




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