比流王とは? わかりやすく解説

比流王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 16:02 UTC 版)

比流王
各種表記
ハングル 비류왕
漢字 比流王
発音 ピリュワン
日本語読み: ひりゅうおう
ローマ字 Biryu-wang
テンプレートを表示

比流王(ひりゅうおう、生年不詳 - 344年)は百済の第11代の王(在位:304年 - 344年)であり、第6代の仇首王の第2子。は伝わっていない。304年10月に先代の汾西王が楽浪太守の刺客に殺された際、汾西王の王子がみな幼少であったために臣民に推戴されて比流王が王位についた。子に近肖古王

概要

仇首王の第1子とされる第7代の沙伴王は兄にあたるが、兄の沙伴王は234年に即位、弟の比流王は304年に即位したとされている。兄弟が70年間の差を開けて即位したとは考えにくい。

K.J.H. GARDINERは、比流王を、百済の初代王・温祚王の兄である沸流と同一人物と見て、比流王以前の10人の百済王は虚構とした[1]

治世

国外との交流・交戦はなく、337年新羅の使者が訪問してきたことを伝えるのみである。国内では312年に慰問使を巡回させ、寡婦寡夫や独り身で自活できないものに穀物を一人につき三石賜った。また、320年には射台を宮殿西部に設けて毎月2回の軍事訓練をさせるようにするなど、国力の増強に努めた。しかし、327年には王の庶弟であり内臣佐平(1等官)でもあった優福が北漢山城(京畿道広州市)で反乱を起こしたり、331年には旱魃続きで不作となり人々が互いに殺して人肉を食い合うようになるなど、必ずしも国力増強には至らなかった。344年10月に在位41年にして死去した。

脚注

  1. ^ K.J.H. GARDINER『The Early History of Korea』University of Hawaii Press、1969年1月1日、45頁。ISBN 0708102573 

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「比流王」の関連用語

1
32% |||||

2
16% |||||

3
16% |||||

4
16% |||||

5
16% |||||

6
16% |||||

7
16% |||||

8
16% |||||

9
16% |||||

10
16% |||||

比流王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



比流王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの比流王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS