大谷本願寺破却
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長禄2年(1458年)8月10日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年)1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、1月10日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。さらに蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれたことに抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。 応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ね、三河に本宗寺を建立する。応仁3年(1469年)、延暦寺と敵対している園城寺の庇護を受け、園城寺子院の万徳院住持で叔父の長命阿闍梨の斡旋もあり、別所近松寺の敷地の一部を譲り受けて大津南別所に顕証寺(後の本願寺近松別院)となる堂を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)12月5日、第二夫人蓮祐尼が死去する。
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