大石巌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/23 09:37 UTC 版)
おおいし いわお
大石 巌
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生誕 | 1921年2月19日![]() |
死没 | 2002年3月3日(81歳没)![]() |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
配偶者 | 明子(あきこ) |
大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19日 - 2002年〈平成14年〉3月3日[1])は、日本の実業家、経営者、ジャーナリスト、証券アナリスト[2]。新日本証券会長。毎日新聞社社友。静岡県出身。
略歴・人物
静岡県立静岡中学校から[3]、静岡高等学校 (旧制)に進み、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業[1]。同年、東京日日新聞社入社、経済部記者[1]。日銀記者クラブのキャップなどを務めた。のちに、毎日オリオンズ出向、営業部長[1]。1961年(昭和36年)、毎日新聞を離籍し大商証券に転じ、福岡支店長を経て、1964年(昭和39年)、取締役[1]。1967年(昭和42年)、合併により新日本証券取締役[1]。1975年(昭和50年)、同副社長。1978年(昭和53年)、同社長[1]。1984年(昭和59年)、同副会長。1986年(昭和61年)、同会長[1]。1988年(昭和63年)、相談役に退いた[1]。1984年(昭和59年)、藍綬褒章受章。
1934年(昭和9年)11月20日、沢村栄治が投げた日米野球を静岡草薙球場で観覧している。静岡中学時代は、学業に専念するため野球部に所属しなかったが、旧制静高、東京帝大時代は野球一色で過ごし、のちにプロ野球大毎オリオンズのフロントで活躍[4]、代表を務めた。
新日本証券副社長時代の1977年(昭和52年)、毎日新聞社が苦境に陥った際、当時すでに財界の重鎮であった中山素平、小山五郎らと連携し、平岡敏雄毎日新聞社社長を助け、毎日新聞を破綻から救うのに貢献した。毎日新聞社はこれを多として異例の社友として遇した[5]。
2002年3月3日早朝、急性間質性肺炎のため東京都内の病院で死去、81歳没[6]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i 『現代物故者事典2000 - 2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.111
- ^ 山内隆博氏 銀行から大不況の株界へ 日本経済新聞 2019年11月23日
- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 68頁。
- ^ 静中・静高関東同窓会 会報第52号 9ページ。平成13年12月20日発行
- ^ 静中・静高関東同窓会 会報第53号 3,4ページ。平成14年5月31日発行
- ^ 大石巌氏死去/元新日本証券社長 四国新聞社 (2002年3月4日)
外部リンク
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