大永期におきた出来事
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元年(1521年) 11月25日(12月23日) - 管領細川高国に推戴された足利亀王丸(義晴)、右馬頭に叙任される。すなわち、将軍就任予定者として正式に認められ、事実、翌月12月25日(1522年1月22日)をもって将軍に補される。 3年(1523年) 寧波の乱 大永の内訌 4年(1524年) 大永の五月崩れ 6年(1526年) 4月14日(6月4日) - 駿河守護 今川氏親が家法三十三箇条(今川仮名目録)を制定。 7月13日(8月20日) - 味方の讒言を信じた細川高国、有力配下の香西元盛を上意討ち。これを機に、高国派の内紛が表面化。元盛の兄弟たち(波多野元清・柳本賢治)に離反される。 10月 - 細川澄元の遺児 六郎、亡父の仇である高国を打倒すべく阿波にて挙兵。細川氏の管領争いが再燃。年内には畿内まで進出した澄元軍、高国から離反した波多野軍と合流。 7年(1527年) 2月12日(3月24日) - 桂川原の戦い。管領細川高国が細川六郎の連合軍に大敗し、将軍足利義晴を奉じて京から落ち延びる。評定衆や奉行人まで逃げ出したため、幕府の政治機能が麻痺する事態に陥る。
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