大永5年の合戦の経緯
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「岩付城の戦い」の記事における「大永5年の合戦の経緯」の解説
大永4年(1524年)1月の高輪原の戦いに勝利して武蔵進出の足掛かりを得た北条氏綱は、武蔵平定のために扇谷上杉家の属城である岩付城攻略に取りかかった。当時、岩付城は朝興の家臣・太田資頼が守っていたが、氏綱は資頼の家臣である渋江三郎を調略して内応させた。これにより、大永5年(1525年)2月6日に岩付城は陥落した。 ただしあっさり北条家の手中に落ちたわけでは無く、資頼は岩付城の堅固を利用して北条軍に3,000余の戦死者を出させるなど善戦し、山内上杉憲房や朝興も支援に出たが、遂に持ちこたえられなくなり、岩付城を放棄して逃亡したという。 戦後、北条氏綱は渋江三郎を岩付城代にして江戸城に引き揚げた。しかし朝興ら扇谷上杉家の抵抗は激しく岩付を北条家の領国化とする事はかなわずに享禄3年(1530年)9月に太田資頼により奪回された。
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