大山祇神社と河野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 15:03 UTC 版)
芸予諸島のほぼ中央である大三島には、大山積神を祭神とする一の宮大山祇神社が鎮座する。島は古くは「御島」と言われていた。神社は宝亀9年(778年)光仁天皇が勧請したものとされ、水の神・山の神・海の神として、そこから航海の神・戦いの神・農耕の神・漁業の神・酒造の神などとして、歴代の朝廷や芸予諸島周辺の信仰の対象であった。 大宮司は代々越智氏、そして越智氏を出自とする大祝氏が務めた。彼らが後に三島水軍となる。そして越智氏を出自として河野氏が生まれ河野水軍が編成され、瀬戸内海の広い範囲を支配した。平安時代末期の源平合戦で源氏方に呼応し、壇ノ浦の戦いでは150艘もの水軍を編成し勝利に導いた。鎌倉時代の元寇の役では河野通有が水軍勢として活躍した。大山祇神社の社宝として剣・甲冑・弓箭具などの武器武具類の多いのは、神社を氏神とした河野氏が奉納したことによる。後述の村上水軍(海賊)も形式上は河野氏配下になる。 大山祇神社領は三島領七島と呼ばれ、室町時代前期時点で生奈島(現在の生名島)・岩城島・大三島・大下島・岡村島・御手洗島(あるいは下島・現在の大崎下島)・豊島で構成されていた。つまり現在の広島県側である大崎下島・豊島・斎島は、中世においては伊予国側であった。
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