大山下の人物とは? わかりやすく解説

大山下の人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 02:09 UTC 版)

大山下」の記事における「大山下の人物」の解説

『日本書紀』見える大山下の人物には遣唐使が多い。まず白雉4年653年)に遣唐使大使になった高田根麻呂翌年副使になった薬師恵日 がいる。斉明天皇5年659年)の遣唐使では、津守吉祥大山下で、天智天皇4年665年)に小山位で出発した境部石積が、2年後帰国時に大山下になっていた。 斉明天皇7年661年9月には、百済帰国しようとする豊璋大山下狭井檳榔らが5千の兵で送った天智天皇10年671年)、亡命百済人一斉に冠位授けたとき、達率の谷那晋首木素貴子憶礼福留答本春初本日比子、賛波羅、金羅金須が大山下になった天武天皇6年677年)には、百済人大博士率母が大山下位を授かった。 そして天武天皇10年681年)に川島皇子12人が帝紀上古諸事記し定めることを命じられたとき、その最下位大山下平群子首がいた。 高田根麻呂 - 白雉4年653年5月12日見。遣大唐大使薬師恵日 - 白雉5年654年2月見。遣大唐副使津守吉祥 - 斉明天皇5年659年7月3日見。遣大唐使。 狭井檳榔 - 斉明天皇7年661年8月?見。 境部石積 - 天智天皇6年667年11月9日見。遣唐使谷那晋首 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人兵法通じる。 木素貴子 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人兵法通じる。 憶礼福留 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人兵法通じる。 答本春初 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人兵法通じる。 本日比子 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人通じる。 賛波羅 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人通じる。 金羅金須 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人通じる。 鬼室集信 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人通じる。 率母 - 天武天皇6年677年5月3日叙位百済人大博士平群子首 - 天武天皇10年681年3月17日見。

※この「大山下の人物」の解説は、「大山下」の解説の一部です。
「大山下の人物」を含む「大山下」の記事については、「大山下」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大山下の人物」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大山下の人物」の関連用語

大山下の人物のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大山下の人物のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大山下 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS