大公位の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/07 05:24 UTC 版)
スラヴ語起源のロシア語「クニャージ(князь)」あるいはバルト語起源のリトアニア語「クニガイティス(kunigaitis)」は、現在は普通「公」と訳されているが、実際には王と同種の意味であった。つまり、主権者としての「ヴェリーキー・クニャージ」は「大公爵」というより「大王」「大君主」に近い。 大公の称号は9世紀のキエフ・ルーシの支配者たちが名乗ったことに始まる。中世のルーシ(ロシアもその構成地域の一つであった)では既に、リューリク王朝に属する複数の支配者が同時に大公の称号を使用しており、加えてリトアニアのゲディミナス王朝の支配者たちも同種の称号を使用していた。 その後、大公の称号は帝政ロシアの皇族の儀礼称号として使われるようになった。すでに16世紀から、君主号としての大公の称号はツァーリに取って代わられ、17世紀には主権者を指す称号では完全に無くなっていた。ロシアの主権者で大公を称した人物に関しては、ロシア君主一覧に記載されている。 大公の称号付与には、本来は明確な規定など存在しなかった。大公の称号を有する者が、自分の相続者にこれを与えることで受け継がれていただけだったのである。19世紀に入る以前のロシア帝室は、男子の成員が2人あるいは1人という状況が長く続き、帝位継承は恒常的に不安定だった。大公を名乗れる男子の成員は数少なかった。エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝は、帝室に男子が一人もいなくなると、帝室の男系子孫ではない自分の姉の息子(ピョートル3世)に皇族の資格と大公の身分を与えて後継者にした。
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