多子・呈子の入内競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 14:20 UTC 版)
白河上皇の院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となり息を吹き返した。忠通は後継者に恵まれなかったため、天治2年(1125年)に頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に実子・基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。久安3年(1147年)に左右両大臣の不在によって内大臣の頼長が一上となると朝廷政務を掌握し、摂政の忠通を圧倒している。久安5年(1149年)、左大臣に進んだ。 久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・多子が入内、19日に女御となる。しかし2月になると忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する(『台記』2月12日条)。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院との連携で摂関の地位の自系統保持を図ったと考えられる。鳥羽法皇はこの問題への深入りを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。
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