堺の惣年寄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 02:07 UTC 版)
大坂の陣により灰燼に帰した堺は、「元和の町割」と呼ばれる区画再編により復興する。東西幹線の大小路(摂泉国境)で南北に分け、さらに本郷と端郷に分けて、北本郷・北端郷・南本郷・南端郷の4区分で、「四辻」(よつじ)と称した。なお、寺町は含まれない。 南北幹線の大道筋(紀州街道)から西へ2筋目の中浜筋と東へ2筋目の山口筋に端郷に属する町が多く見られる傾向などはあったが錯綜が著しく、例えば、同じ大道筋沿いでも少林寺町、新在家町、南半町は端郷、他は本郷であった。そのため、元禄6年(1693年)に本郷と端郷の区分を廃し、北組102町、南組76町の南北二組制となった。なお、本郷と端郷の区分は費用の負担に関する意見の相違によって生じたもので、貧富の差によるものではない。 四辻時代には、南北両本郷とも浜筋・本町・付町・百姓町の4組、北端郷が中浜筋・山口筋・東筋の3組、南端郷が本町・付町の2組、計13の組合を形成していたが、南北二組制になると、南北両組とも浜筋・中浜筋・大道筋・山口筋・東筋・農人町筋の6組、計12の組合に再編された。 北組、南組にそれぞれ惣会所が設置され、それぞれ6名(のち5名)と5名の惣年寄が月番で勤務し、その下で惣代と職事が雇われて実務にあたった。また各町には町会所が置かれ年寄、月行事が勤務し、町代が雇われて実務にあたるという自治体制が敷かれた。町政を執り行う機関として、惣年寄の上に堺奉行があったが、元禄9年(1696年)に一時廃止され、堺は一時期大坂町奉行の管轄下に置かれたが、同15年(1702年)には堺奉行が復活した。
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