埼玉西武ライオンズ監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:29 UTC 版)
「伊原春樹」の記事における「埼玉西武ライオンズ監督時代」の解説
自身も名参謀として共に築いた1980年代後半から1990年代半ばの西武黄金時代を復活させるべく、満を持しての監督就任であった。しかし、就任直後に涌井秀章(移籍先→千葉ロッテマリーンズ)と片岡治大がそれぞれ(移籍先→読売ジャイアンツ)FA権を行使して移籍するなど、不穏なスタートであった。就任後、選手に長い裾のユニホームやひげを禁止、門限も午後10時に設定、また野球以外の部分でも厳しい戒律を求められた精神論(例えば、親会社である西武鉄道の初乗り運賃を答えられない選手を厳しく叱りつけるなど)を説く場面をしばしば報道され、涌井や片岡の移籍の伏線とも言われた。シーズン開幕後は成績が上がらず、敗戦後に選手を名指しで痛烈に批判する場面も増えていたため、それが原因で一部選手との確執が報じられた。 秋田への遠征中、5月16日に同市内で行われた全体練習で暴風雨だったにも関わらず、屋外での全体ランニングを強行。長期の遠征中だったこともあり、一部の選手から反発の声が上がった。伊原は報道陣に「これで負のオーラを流すことが出来る」と語り、低迷するチームへの発奮を促すためであると強調したが、選手たちからは不満の声が続出した。。
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