地元播州・兵庫での活動
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「大塚徹 (詩人)」の記事における「地元播州・兵庫での活動」の解説
地元播磨でも活発な活動を続けており、1929年には『椿』を解散し、木坂俊平と民謡誌『獏(第一次)』を創刊するものの、1年で解消、翌年に竹内武雄の『黒点』と合流し、播磨芸術家協会を結成、雑誌『風と雑草』を創刊する。翌1931年には同窓後輩の小林武雄が神戸にて『土偶と詩人』を発行するにあたり、「寒飢の冬が来るぞ」を寄稿。新興文学、プロレタリア文学が盛んになる中、叙情詩人であった徹も少なからず影響を受けることとなった。 1933年(昭和8年)長女冴子を疫痢で亡くしたことを受け、「死なす」を『神戸詩人・昭和詞章選集』に発表。翌年、光本兼一発行の『神戸詩人(第一次)』に参加するが、光本の急逝により神戸詩人協会は解散。翌1935年(昭和10年)、季刊『ばく(第二次)』を創刊するも、4号で廃刊、新たに姫路詩人倶楽部を作り『ヴァリェテ』を発行した。1937年には松本重雄、八木好美などと共に姫路詩人倶楽部を脱退、小林武雄の『神戸詩人(第二次)』に合流した。
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