土田堰と土町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 18:19 UTC 版)
正之の葬儀のときに葬儀奉行であった会津藩家老友松勘十郎氏興は、神社の維持管理の方法として、神社の神田を作ってそこからの収益で維持することを考えた。そして、荒野を切り開いて田を開発するために造られたのが土田堰(はにたぜき)である。土田堰は長瀬川(酸川の合流地点よりやや北側の辺り)から引水され、磐梯山東麓から土津神社の境内前を通り、大谷川下流にそそぐまでの約17キロメートルの堰で、磐梯山の南麓・猪苗代湖北西部一帯を灌漑している。土田堰によって開墾された村は土田新田村と呼ばれた。また、正之の墓と土津神社を守り、祭事を行う人々のために造った集落が土町(はにまち)である。土町は土津神社の門前に位置し、住民は年貢や賦役を免除されていた。 現在、土田堰は江戸時代と同様に磐梯山南麓一帯の水田を潤しており、また、土町には民宿もあり観光客が訪れている。
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